3つのねがい

先月、祝日でしごとが休みになった月曜日、ひさしぶりに伝説の(?)Pod cast、That’s danceに参加させてもらった。楽しかったなあ。(※この205回です→★)
そこで、思いがけず「3つ願いをかなえてもらえるとしたら何を頼むか」という話になった。というかその話題を持ち出したのは自分なのだが。
どうしてそんな話になったんだっけ…と思ったら、たしか、次の週が巡ってくるのが早すぎる、という話から、小学生のころ読んだホラー漫画でそういうのがあったという記憶が蘇ってきたからだった。
女の子が、悪魔に「なんでも願いを叶えてあげる」と言われて、無邪気に「毎日が誕生日だったらいいな」と言ったら、たちまちその願いはかなったのだが、毎日誕生日が来るということは、毎日年をとるということで、女の子はあっというまによぼよぼになり、それでも明日が来るのが止められない…という救い難い話だった。
調べてみたら、犬木加奈子の「毎日が誕生日」という漫画だった。Podcastで「御茶漬海苔の漫画」と言ったような気がするが訂正します。画像を貼るとこわいので検索してください。
この漫画からわたしは、軽々に自分の浅薄な欲望を口にする者にはろくな末路が待っていない、という重要な教訓を学んだ。もし、万にひとつ自分にそのような状況が出来した場合にそなえて、できるだけ準備をしておかなければ。
まずいちばん大事なことは、もしそれが悪魔なり何らかの邪悪なフォースの誘惑であった場合、それにのってはいけない。その願いとやらがどんなに純粋で、利他の愛に満ちたものであったとしても、そこには必ず何らかの落とし穴が用意されている。妖精もまた同様で、結果はつねに彼らの気分次第であるうえに、往々にしてそこに善悪という判断基準が存在しないという意味では悪魔以上にやっかいである。その点魔女の場合、「はたらきもの」という一点が思いのほか効果を発揮することがある。
どちらにせよ、ピュアなふりをして願いを叶えようとしたところで、彼らを出し抜けるものではないのであって、その思い上がりこそが、数多の悲劇をまねいてきたという現実を、人々はもう少し真剣にかんがえたほうがよい。
しかしもんだいは、通りがかりにいじめられている亀を助けたとか、わなにかかった鶴を放してやった(うえに見返りをもとめることもなかった)よき魂への褒美として、神さまや何かが「願いでもかなえてやるか」となった場合の対処である。
ここでは、その前提として自分が、神さまがついその気になるだけの善意の人である必要があるという部分は、いったん傍に置いておきたい。
かなえられる願いの数には限りがある、というところが、この問いの肝である。
Pod castでも話したけれど、チャンスを最大化する方法としては、当然「無限に願いが叶うようにしてください」と願うのが、かしこい方法ではあるだろう。しかし、これまたもうせん指摘したように、そのような賢しらな真似をして神さまの気をそこねようものなら、待っているのはバスマットの来世である。
よしんば、神に二言はないとして、しぶしぶその願いが叶えられたとしても、無限に願いが叶うということは、「うっかり」のリスクと常に隣り合わせということでもあり、つい口からでた悪態や冗談で、ドラえもんのエピソードみたいに全人類消去したりしかねない。今後ひとときも気が休まらない人生を送ることになるだろう。それを回避しようとすれば、「願い」とみなされる条件として、特定の紙(メーカー指定)に願い事を署名捺印つきで墨書きし、2人以上の承認を得たのちに彼ら同席のもと朝日の昇る瞬間に東の空に向かってその紙を飲み込むとかいうような制約を盛り込まねばならない。
とここまで考えて、なんかできそうな気がしてきたが、やっぱり末路はバスマットという気がしてならないので、ここはひとつこれもいったん傍に置いておきたい。

子どものころから今のいままで、神社や寺や教会に行けば必ず祈り、何か願いがかなうとしたら、ぜったいに外せないのは、「この世から戦争がなくなりますように」だ。
Podcastでは「戦争がありませんように」と口走ってしまったが、これは訂正したい。あまりにも世の中に戦争がはびこり、不安と絶望のあまりに、うっかり「自分だけは逃げられますように」みたいな気持ちになっている証拠かもしれない。また、戦争がなくなっても、それが恐怖の大王による圧倒的支配ゆえだったりするのはいやなので、「世界中に平和が訪れますように」がふさわしいのか。なるべく誤解が生じないような言葉選びが必要だ。
また、わたしはつねに死に恐怖を抱きながら生きてきたので、それが取り除かれるならどんなにいいか知れない。さすがに半世紀生きてきて、死んでこの世からいなくなること自体は許容しつつあるが、死にあたって苦しかったり痛かったりするのがいやだ。もっと言えば、身体的な苦痛だけでなく、度を超した恐怖や悲しみの中で死んでいくのもいやである。
それらすべてを言い表す言葉というとなんだろう……「辛い」か!
「死ぬときにつらい思いをしませんように」これいいんじゃないの?
っていうか、「この世の全員がつらい思いをせずに生きて死んでいけますように」だったら、一緒に戦争もなくなって願いがひとつぶんで済むんじゃない?わたしてんさいか。
ちょっと表現があいまいすぎて、「つらい」の定義を明確にしろって言われるかなあ。
ひとつ余裕ができたところで、完全に個人的な願いがかなうとするなら、
「しょっちゅうトイレに行きたくならないようにしてほしい」を入れたい。
トイレが近い、とりわけ、何か飲み物を飲んだあとたちまちトイレに行きたくなり、それが一回ですまないという体質には、ほとほと手を焼いているのだ。このあと外を歩いたり、乗り物に乗ったりする予定があるというときに、すすめられたお茶をのんだり、カフェで休憩したりが気軽にできるようになれば、わたしのクオリティオブライフは爆上がりまちがいなしだ。
だんだん軌道に乗ってきた気がする。
そしてやはり、じぶんのことばかりでなく、猫のことも念頭においておきたい。
わたしとしては、この世の最後の瞬間まで猫がいっしょにいてほしいと思うが、わたしがいなくなっても猫にはひきつづきしあわせに暮らしてもらいたい。そして、自分の猫だけでなく、この世の猫すべてがそうであってほしいと願うのは、全猫好きの共通の希求といってさしつかえないだろう。
そうすると「全猫がしあわせでありますように」か。だんだん町角に立ってるイエスさまの看板みたいになってきたな。


しかし考えてみれば、ねこがしあわせに暮らせる世の中は、ひいては人も暮らしやすい世の中にちがいない。あたたかく眠れるかわいた場所、十分な食事、迫害されない自由と尊厳。猫にそれを保証する役目を担うにんげんもまた然りである。
ありとあらゆる場所、状況で、「ここで猫はしあわせか」を判断基準とすれば、そこに戦争や恐怖政治の入り込む隙はないだろう。いや、猫だけを優遇する恐怖政治……そのとき猫たちは、その幸せを願ったわたしのことを思い出してくれるだろうか。くれないだろうな。
By はらぷ

むぎ
私もトイレが近いのです!飲み物飲んだら何回も…私の話かと思いました。
今アイスティを飲みながら書いていますが、これからライブなのです。ああ、不安。
そんな所に共感してしまいましたが、全猫が幸せでありますように。
私もそう願っています。