ああ、一人歩き。むくむくともやもやのあいだ。
土曜日。車が使えなかったので塾に行く子どもを近くのバス停まで送る。片道15分。結構な重さのリュックを背負いランチバッグを手にした息子と歩く。「背中を伸ばす!大股で歩く!うつむかないで遠くを見る!」。檄をとばすわたしに向かって「おかあさんも今日一日、ちゃんとトレーニングをしておくようにね!」と息子は言った。
トレーニングというのは、ともかく歩けということだ。バスの乗客は息子一人。どこに座るのかと見ていたら、運転手さんの横に座った。運転手さんは笑いながらわたしに会釈をしてくれた。
お天気がいいのでトレーナーの言うとおり遠回りで家に帰る。ガソリンスタンドの前でママ友のご主人に手を振られる。車にはパパ一人だったけれど、これからみんなでお出掛けなのかな。川の土手で、白鷺がじっと立っていた。
水やりを忘れて放置してしまったチューリップが、球根の殻を頭にのせたまま芽吹いている。お正月に植えた葉ボタンは中央をもりもりさせて円錐形になりかかっている。秋からこちら黒褐色に色を変えて葉っぱの厚みを増していたおかめ蔦が、「は~今年も寒くてかなわんかったわ~」と文句を言っているように見えた。
子どものお弁当の残りのお昼を食べて、午後からお習字のお稽古に伺う。いつもは車で10分足らずの道のりを、30分近くかけて歩く。硯箱が肩にかけたバッグの中でカタカタと揺れ、小学生のランドセルのようだと思う。学生アパートおぼしき部屋の前で軽トラックが荷積みの最中だった。
薄着をして出てきたつもりが先生のお宅に着いた頃は少し汗ばむほどになる。ご挨拶をして筆を持つけれど、息が上がって筆が揺れる。つい吹き出して事情を先生にお話しすると「それはそれはご苦労さま。まあ一息おつきなさい」とお茶を淹れてくださる。真央ちゃんのはなしなど先生とひとしきりおしゃべり。
「じゃあ坊ちゃんは、今日はちょっとした冒険ですね。ここらの子は、ふだんは電車にもバスにも乗る機会がほとんどないから」。
地方のこういう町では、大人も子どもも移動はもっぱら自家用車頼りだ。「いい?バスの料金は自販機みたいにおつりは出ないのよ」と言ったとき、息子の顔は引きつった。ここは日本だ。なんとかするのだ。
お習字の帰り道、脂肪という積雪の中の筋肉が、長の眠りから無理やり起こされて、ヒーヒー言いながらも喜んでいる感じがした。行きに見た軽トラックは、荷物の上にビニールのシートを被せるところだった。学生さんは新しい土地へ出て行くのだろう。
6時半。夕飯とお風呂の準備をして玄関を出たときは明るかったのに、迎えのバス停に着く頃には暗くなっていた。大学構内にあるバス停には年度末の土曜のせいか人影がほとんどない。待てども待てどもバスは来ない。10分がたち15分がたち20分になろうとする。どこかで行き違ってしまったか。家で待つのが正解だったか。正門前の交差点であと一信号待ったら帰ろうとしたところでバスが来た。乗客はやはり息子一人。
運転手さんに会釈して「大丈夫だった?」と息子に声を掛けると、「バスは遅れてきただけで大丈夫だったけど、駅で妙なことがあった」と言う。
塾の目の前にある駅前のバス停で、バスはすでに10分遅れだったそうだ。日が陰りはじめ、まだかまだかとバスを待っていたら、頭巾をかぶった男の人に声を掛けられた。その人がするはなしをバスを気にしながら聞いていたら、「きみはわたしのはなしをよく聞いてくれた。出会いは一期一会だ。困ったことがあったらここに連絡して。わたしはどこにでもいる」と名刺を渡されたそうだ。
「この名刺、お母さんが持っとって。それからこのはなしはもうしないで。この名刺もぼくには見せんで。ああでも、あのひとのことが気になる。。。」
夕暮れ時、古くて暗い駅。大荷物の小学生とナゾの怪傑黒頭巾(?)。なかなか来ないバス。
こういう体験のない息子は、疑心暗鬼のまま生真面目にはなしを聞いていたのだろう。名前や住所を聞かれることはなく、聞かれたとしてもそれは言わないと息子は言った。
家に帰って見ると、名刺には介護福祉士という肩書と、簡単な来歴、裏面に金子みすずの詩がイラスト入りで印刷されていた。「わたしはどこにでもいる?」。わたしは名刺をポトリと捨てた。
「あの人のことが気になる」と言うのは、少し怖い経験として頭から離れないということなのか、その人のことが心配なのかどちらなの?と息子に訊ねると「両方」だと言う。「ああ、もやもやする。僕はどうしたらいい?」と聞くので、忘れなさい、と応える。気になるけどね、と付け加える。
一人歩きが増えれば、きっとこういうことも増える。蠢いている。むくむくもやもやしている。息子もわたしもそのひとも。
せっかく18699歩歩いたことを自慢しようと思ったのに、思わぬ伏兵にはなしの腰を折られてしまった。
一人で歩くということは、むくむくもするしもやもやもする。そのあいだを歩けばいいと思った土曜日。
「背中を伸ばす!大股で歩く!うつむかないで遠くを見る!」。もって自戒とす。
nao
こんにちは
息子さん、びっくりしたでしょうね。
こういう時、お母さんに名刺をあげてしまうのはひとつの正解だし、そう出来てよかったです。
小学生ですもんね。
子どもができたとき、知人から「人生が2度楽しめる」と言われました。
初めてのひとりの留守番、おつかい、バスや電車に乗ってのおでかけ
知らない人とのやりとり、怖い思いや緊張・・どれも新鮮で自分のこと以上にドキドキします。
でもそれもどんどん慣れていって親から離れていくのよね-。
小学生、いいなあ~。
ところで先日地元のデパートで山形物産展があり、くぢら餅とくるみゆべしを買って食べました。
くぢら餅はうちのと全然違ってた!くるみゆべしは美味しかったです。醤油味が新しい!
サヴァラン Post author
naoさん こんにちは
うちの子の場合は免疫がなさすぎる部分がありますが
naoさんにコメントいただいて
「そうだ。わたしは親にも言えない子だった」と思い出しました。
言葉にする=体験を再生する のもイヤ、みたいな心境でした。
息子は「言えちゃう子」で良かったと思います。
いろいろ忘れてるんですね。子ども時代のこと。
大きなできごとの隙間に埋もれた小さな数々の明暗。
そういうものをけっこうな短期間であれこれ飲みこんで
やがてあっけなく独り立ちしていくんでしょうね。
ところで 山形のくぢら餅!
青森の久慈良餅と違うんですか!
むむー、くぢら餅も奥が深いなー。
くるみゆべしは
わたしは最初、金沢の「ゆべし」とあんまり違うので
たまげた記憶があります!
青緑
こんにちは。
息子さんのお話に少しドキドキしました。ご無事でよかった!暗い場所に黒頭巾は大人でも怖いな。爽やかなそうな感じでも怖い人はいるので、黒頭巾がどんな人かわかりませんが、「たまたますれ違った不思議な人」ということで忘れてしまえばいいんですよね。18699歩も歩かれたんですか。わたしも頑張らなくっちゃ。
サヴァラン Post author
青緑さん
こんばんは。
ご心配いただいてすみませんm(__)m
たしかに少しあぶないできごとでした。
わたしは、あの駅のあの時間帯の様子を知っているので
かなり鷹揚だったのだと思います。
だいたい息子の口から「頭巾」という言葉が出たときに
怪傑黒頭巾とか鞍馬天狗が浮かんでしまった
ふまじめな母親です^^
よくよく聞いてみたところ
「泉谷しげるみたいな恰好のひとだった」と。
頭巾?あれ頭巾?泉谷しげるに聞いてみたいです。
一人歩き
いったん歩きだせば どこまででも歩けそうな気になるもんですね。
「歩き出す」までが、わたしの場合かな~りお尻が重いんですが^^