第50回 猫と絵本(入口編)の巻
我が家に猫が来てから、まもなく半年になります。
2013年の春に生まれた尻尾のないボブテイル三毛猫ミィは、友人に言わせると、短足短胴?短足胴短?(どっちにしても失礼なっ!・・ま、そこもカワイイんですけど)だそうですが、快食快便快眠で6ヶ月で体重が0.6キロ増えました。
そして、足元にはしょっちゅうまとわりついてくるくせに抱こうとすると逃げるという、たぶん猫全般にありがちであろう、わかりやすいツンデレぶりで家族を翻弄し、術中にまんまとハマった平均年齢70才強の4人は、日夜、猫争奪戦を繰り広げています。
特に、91才と、昨日めでたく86才の誕生日を迎えた2人の前のめりっぷりは当初の予想以上です。ハンパないです。
「今日はまだミィちゃんを見ていない(けっこう朝の発言)」
「キタキタキタキタ!」
「早くドアを閉めて!2階に行っちゃうから」
などなど。
可愛がるとは思ってた。思っていたけれど、ここまでとはねえ。
「やっぱりミィちゃんは2階(夫と私)の方が好きなんだ」といじける2人に「そんなことはない」「いや、寄って行くと私もけっこう逃げられますよ」と毎日言い訳(?)している嫁。
・・あまりに毎日なので、ちょっと言い飽きた。
猫が家に来たのとほぼ同じ時期に、私は小学校の図書室のパート仕事を始め、頻繁に絵本の読み聞かせをしています。
小学校の図書室で働くとなればそれは自明の理、なのでしょうが、実は私、うっかりしていてあまりそのことを想定してませんでした。
子ども達と遊んでいればいいと思ってた(笑)。
図書館勤務は長くても、児童書界隈とはほぼ無縁の日々を送ってきたもので、読み聞かせの知識やスキルはほとんどありません。
なので、にわか仕込みの、ぶっつけ本番の、出たとこ勝負の、半年でした。
もちろん、その分野のブックガイドや指南書は数多くあります。
研修も受けました。
でも・・こういうことを言うのは我ながら本当にどうかと思うのですが
あまり参考にはしていません。
マンガ『浮浪雲』で渋沢老人も「楷書を熟知して草書で生きる」と言っていますし、基本や基礎体力あっての自分なりの解釈、応用、アレンジだとは思うのですよ・・思うのですけど、「読み聞かせ向きの絵本はこれ」とか「正しい絵本の読み方」とか、あまりにも迷いなく言われると、私のような心の汚れた中年は腰が引けてしまうのです。
ちょっと待ってよ、と。
最低限の決まりごとはわかるけれど、それ以外は「余地」があっていいでしょう、と。
特に、本のセレクトに関しては自分の印象や判断を優先したい。
それが正しいとか、なにより重要、と思っているわけでは必ずしもないのです。
自分の選択眼を信じてるから!という、たいそうなものでもありません。
実際、それほど信じてなかったりしますし。
ただ、誰かが決めた誰かの正しさを鵜呑みにして、それに全面降伏してしまうと、自分は考えることや検証することを放棄して思考停止してしまうだろうというのがわかるのです。
自分とは長い付き合いなので、低い方に流れる我が身の早さったらないことを知っています。
それをここでまた思い知るのは、半世紀以上も生きてきてなんだか情けない話ですし、ある意味、怖いです。
なので、絵本という分野の知識が浅いという事実は肝に銘じつつ、試行錯誤してもなるたけ自分で選びたいと思うのです。
教条主義に走るのだけは、それだけはゴメンだというのが唯一のよりどころ(?)です。
猫との生活は、そんな現在の私の、絵本を選ぶとっかかりのひとつになっています。
絵本の世界に首を突っ込み、あらためて猫がモチーフになっている絵本が気になります。
「人生の50年以上、猫を飼っていなかった」自分だからこそ、猫のことはまだ全然わからないとわかるし、猫に興味のない人(子ども)の存在や気持ちも理解できます。
猫は可愛いに決まってるとか、猫LOVEを押し付けるような本に対する嗅覚もある・・気がします。
同時に、猫によって新しい世界が広がること、そしてそこに喜びがあれば、必ずセットで不安や畏れ、諦めも存在すること、が描かれた本にはハッとします。
猫との生活が表層的ではなく描かれた絵本。
たとえば『タンゲくん』
たとえば『ねこのシジミ』
この2冊はたまらないです。
でも、アツい推奨文を書くのは、なんだかここまでの自分の文章を否定するみたいな気も。
自家中毒か、私。
そんなわけで、内容には触れません。
よかったら読んでみてください。
by月亭つまみ
こんなブログもやってます♪→→「チチカカ湖でひと泳ぎ」<
まっつ★
我が家にも「ねこのシジミ」、あります。
でもちょっと特別製^^
作者の和田さんが週刊文春の表紙を
書いていて、時折シジミちゃんが
カバーモデルで登場。
我が家のばあちゃん猫に似ていたので、
表紙だけ取ってありました。
10年ほど前にしじみちゃんが
亡くなって半年後に、
最後のしじみちゃんの表紙が。
我が家の「シジミ」の表紙の裏には、
亡くなる1年前の寝姿の表紙が、
裏表紙の裏には最後のイラストが
貼られています。
先ほど久しぶりに「シジミ」を
ひっぱりだしてきました。
今、鼻水をすすりながら
コメントを書いています^^;
nao
こんばんは。
子どもが小さい頃にずいぶん読み聞かせをしたはずなのに
猫のでてくる絵本があまり浮かんできませんでした。
11ぴきのシリーズとかかなー。
個人的には声に出して読んだときに
言葉がスムーズに出てくる言葉遣いになっている本が好きです。
ばばばあちゃんのシリーズとか。
子ども達に囲まれて楽しそうというか、大変そうというか。
がんばってくださいね。
ミィちゃんにもよろしく。
つまみ Post author
まっつ★さん、コメントありがとうございます。
特別製の「ねこのシジミ」、いいですねえ。
和田誠さんが週刊文春の表紙でも描いていたこと、知りませんでした。
18年前の絵本なのに、今シジミがいないことがすごく寂しく思えます。
最後の1ページのせつなさったらないです( ; ; )
つまみ Post author
naoさん、こんばんは。
ばばばあちゃん、いいですね。
先日、同じ作者の「せんたくかあちゃん」を1年生と2年生に読みました。
2年生の方が反応がよかったのは、私に気を遣ってくれたのかもしれません(^_^;)
子ども達に囲まれている時間はとても楽しいです。
でも職員室は・・以下自粛。
ありがとうございます!
がんばります。
okosama
は!50回目だ!
つまみ Post author
okosamaさん!
カミングアウトしちゃおうかなあ。
実は
実は
⑬が2個ありました(^^;
ずいぶん経ってから気づいたので、まあいいかと思いましたが、われながらマヌケです。
限りなく51回に近い50回ということで(^O^)
okosama
13?…は!ほんまや! (笑)
*別件ですが、過去記事サクサク探せますね。
タンゲくんは表紙を覚えてます。
読み聞かせって、読み手が感情移入してはいけないとか、手法があるのですよね?そういうの知らずに読んでましたが。
つまみ Post author
okosamaさん、おはようございます。
⑬っていうのがどうなの?と思いますが(笑)。
そうそう。
読み聞かせにはいろいろ手法とか、決まりごとがあるみたいです。
でも、「感情は抑えて」と決めてかかることもどうかと思うんですよねえ。
読んでいてつい気持ちがこもったとしたら、それは絵と文字の力に感応したということだと思いますし、そのライブ感みたいなものをあえて否定する必要はないんじゃないかなあと。
正しいことはひとつじゃないと思いたいです。
みゆ
つまみさんこんにちは♪
猫 私も大好きです。猫達の為働いていると思ってる!
そして、私のだいすきな一冊は「百万回いきた猫」です。王道ですみません。
何度読んでも涙がでます。そして、教えられます。
それから、また一匹 子猫が増えました。4匹目です。
おかーさんは、あなた達の幸せの為、今日も戦っているよ。
きっと、にゃんこ達にしたら自己中極まりないことでしょう・・・
新しい猫の名前は「にしん」 去年天寿をまっとうした「しんのすけ」を
受け継いで、二番目のしんちゃんという意味です。
動物病院で、名前呼ばれてちょっと恥ずかしかった(^o^)
サヴァラン
つまみさん こんにちワニ。
先日、Twitterを覗いておりましたら
「絵本の読み聞かせは学力向上に資することが科学的に裏付けられた」云々
という話題が散見されました。
ふーーーーん。と思っちゃうワケです。
まず、学力向上ありき、なのねと。
以前巷で「脳トレ」なるものが大流行したとき、テレビのドキュメンタリーで、老人ホームのお年寄りに「脳トレ」を試して、すばらしい成果があった云々というのがありましたが。
コレ、ちーっとも「科学的」ちゃうし。ひとがひとと関わった、という成果やし。
「読み聞かせ」って、なんでこないに窮屈???
とわたしは思っています。
子どもの世界に「お楽しみ」をひとつプラスする。
子どもと大人が「絵本」を通じてコミュニケーションをとる。
そのくらいのスタンスでいけませんかね?>絵本さんたち
教条的な絵本 でえっキライです。わたしが。
「感動絵本」「涙なくしては読めない絵本」もダメ。
感動や涙は、いくらかの「実体験」をつんだ大人が追体験するならまだしも、「実体験」の経験値の薄いお子らに「感動」や「涙」を押し付けるのは、大人の側の自己満足のような気がしてしまって。
なんかアレです。
「子ども=全知全能のひと」
「読み聞かせする大人=いい大人」
この単純すぎる図式に食傷するとです。
「絵本」や「読み聞かせ」、すてきな世界だと思います。
「大人のエゴ」が、にょっきり顔を出しさえしなければ。
ネコの絵本といえば
「100万回生きたねこ」という佐野洋子さんの超ロングセラーがありますが。
佐野洋子さん、大好きですがあの絵本はわたしは子どもには読みませんでした。
あれは「大人の絵本」。そう思っています。
「絵本」は「絵と言葉が語る本」であって、「絵本=幼児用」じゃないんじゃないかな?
「絵本」といえば「子どもの主食」。「子ども」と見れば「読み聞かせ」。
「読み聞かせ楷書本」を横目で見るたびに
わたしはその世界に結局入っていかれへんかったわー、と思います。
「読み聞かせ熱」、湯加減 熱過ぎ。(わたしニワ)
つまみ Post author
みゆさん、こんにちは!
4匹!にぎやかでしょうね。
いや、むしろ1匹飼うより、猫社会ができて統制がとれたりするのでしょうか。
キャットフード代も大変そうで、「猫達の為に働いている」という感覚、お察しします。
そしてそして、それぞれの座右の絵本、あるのですねえ。
それにしても「にしん」っていい名前ですね。
二番目のしんちゃんという由来がグッときます。
うちは、義父母が呼びやすいのがよかろうよミィという、何のひねりもない名前にしましたが、半年ですでに、他の名前は一切考えられないくらいにミィです(^O^)
名前っぽく見えてきますよね。
にしんちゃんもさぞや・・。
つまみ Post author
おおっ!サヴァランさん!
登場いただき、ありがとうございます!
>子どもの世界に「お楽しみ」をひとつプラスする。
>子どもと大人が「絵本」を通じてコミュニケーションをとる。
まさにまさに、私の思うところです。
今の仕事、毎日行けないので、お笑い芸人よろしく「顔と名前だけでも覚えてもらいたい」という意識で読み聞かせをやっています。
読み聞かせをやると、その後、子ども達がフレンドリーに接してくれるようになる、というのは実感しているので。
読み聞かせじゃなくても、手品とか漫談とかできれば、それでもいいんですけどね。
それでもいい、どころじゃなく、サイコーですかね。
私、物語を読む醍醐味は、その世界に翻弄される、だと思ってるんですよ、昔から。
それは、子どもだから、絵本だから、は関係なくて、どんな年齢でもどんな本でも同じだと思うのです。
なので、びっくりするでもゾッとするでも、しんみりするでも人生を憂うでも笑うでも泣くでも腹が立つでも感動するでもくだらねーでも、浸れればそれが面白いっていうか、その感情そのものには貴賎がないと思うんですよね。
なんだか、感動、泣ける、ばかりが素晴らしい感情みたいに持ち上げられるのってどうかと思う。
読み終わって呆然としたりする本、悪いんかい!みたいな。
単純すぎる図式化、私もどうかと思うとです。
今、図書室の前に貼ってあるのは「よい絵本」のポスターです。
http://www.j-sla.or.jp/recommend/yoiehon-top.html
百歩譲って、主旨には文句は言いますまい。
そこはこらえます。
でも「よい絵本」って。
このネーミングを通す感性というか言語感覚というか立ち位置がちょっと、かなり苦手です。
サヴァラン
つまみさん
自由のくにの女王ミイちゃん。
ご家族はすっかり翻弄されてるご様子ですね♪
「よい絵本」
あります!ありました!うちにもこの帯のついた本が。
リンク先、
並びに「全国学校図書館協議会絵本選定基準」を見てきました。
「いい絵本」の選定基準には
「子どもに対する正しい愛情があるか」という項目がありますが、
この選定基準そのものには
「絵本に対する愛情」は感じないにゃぁ。
>私、物語を読む醍醐味は、その世界に翻弄される、だと思ってるんですよ、昔から。
つまみさんのこれ↑を伺って思い出したのが坂口安吾の「文学のふるさと」。
理不尽さにつきはなされ
理不尽さに抱かれる。
これって、アリですよね。
>「楷書を熟知して草書で生きる」
これ↑もしびれるな~。
いっそ「読み聞かせ」界の草書の星になってくだされ♪
つまみ先生!!
つまみ Post author
サヴァランさ~ん(^O^)
「子どもに対する正しい愛情があるか」って言葉には反応しまくりですよ、私。
「子どもに対する」にも、「正しい愛情」にも、「愛情があるか」にも、もちろん全体にも、つっこみたい。
人間、生きとし生けるもの、に対する、じゃなくていいのか?
愛情の正誤ってなんだ?
あったらどうなんだ?あるだけで、あれば、いいのか?
などなど。
子どもに対する、と限定することで見えなくなるものがあると思うし、愛情は正しいか間違っているかの二択で判断するものではない気がします。
そして、愛情があればそこで完結じゃないだろうと。
われながら、屁理屈だとは思うのです。
揚げ足とってんじゃねーよ、最大公約数的文言で括るのは形式上しょうがない、ってこともわかりつつ。
でも、選ぶ方は、選ぶということに対して常に迷っていて欲しいです。
選ぶことに自信なんか持って欲しくない。
自分は見る目、選ぶ目があるなんて思うな。
試行錯誤、右往左往しろ。
テキトーに選んだりしてもいいから、それを小ぎれいな言葉にすり替えるな。
最後は主観なのだから、それを「選定基準」という印籠でごまかすな。
って感じですかね。
サヴァラン
いやほんと。
「子どもに対する正しい愛情があるか」って、なんやねん。です。
(い、今頃すみません_(._.)_)
こんなことを
こんなふうに
あるとかないとか
正しいとか正しくないとか
ばっさり「選定」できるのなら
「絵本」はおろか
「本」も
「文」も
いらないんじゃね???って
くだまきたくなります。(飲んでません)
わたしはそもそも「本」を
ある「権威」と結びつける発想がキライです。
「本」も「書き手」もそんなことを
望んじゃいないだろう?と。
(おや、もしかしたら望んでいるムキもあるのかな)
なんかあれです。
こういう「選定協議会」というしかつめらしい会合が
行われている建物の横を
猫がごろごろ~~~っと通り過ぎる光景を想像すると
うきうき~~~っとなる。はい、わたしはおかしな性分です。
つまみ Post author
サヴァランさん、その光景は私も心躍りますよ。
そうなの!
「本」と「権威」を結びつける発想が腹立たしいのです。
でも、残念ながらそれを望んでいるムキがあると思うのですよね。
誰かの何かの本に(結局、情報ゼロ)「作業着を着た男が(難解な)本を読んでた」みたいな描写があってびっくりしたことがあります。
ダメ押しのように「人は見かけによらない」と続いてました。
どう思います、これ。
ホームレスが実は高学歴、みたいなベタな驚きはまだわかるんです。
「ホームレス」はドロップアウト界のひとつのブランドですし。
でも、作業着云々は違うでしょう。
漫画なら、スポーツ新聞なら納得するんかい!
あれ?論点がズレてますかね、私。
でも、うちの夫は作業着男ですが、なんだかしちめんどくさい本をよく読んでますよ。
だからといって、すごいともエライとも思わないし、もちろん「見かけによらない」とも思いません。
単なる趣味じゃん!!