ああ、お年ごろ。あの頃と今のあいだ。
近所の中学生を見ていると、ああ、お年ごろだなと思う。
以前からたたずまいが素敵だな~と憧れていたバルテュス夫人節子さん。山口市の図書館が持っている節子さんのご本は、わたしが4冊ここに借りています。市内の節子さんファンの方、ごめんね。
お能の女面を、甘く、愛らしくしたようなお顔立ちの節子さんは、日本にいる日本人とは一味もふた味も違う、伝統的といえば伝統的、モダンといえばモダンな和装を好まれるけれど、不思議とそれが奇異には映らない。長く異国に住まわれてなおこのたたずまいでいらっしゃることは、この方の中に唯一無二の美意識が貫かれているからだと思う。それはまた本当にお若い頃からの。
かなり長いこと(といってもここ15年くらいか)憧れ続け、多くのお写真も拝見してきた気がするけれど、改めて数冊の本を眺めわたしてみると、あら?と思うことがあった。
何しろ20歳でかのバルテュスに見初められた知性と美貌の持ち主である。西洋人とは対極の「静」の美しさ(そうだな。今なら日本画の松井冬子さんなんていう神がかった美人がいるけれど、あの方の美貌と節子さんの美貌は対極なんだよな)、ともかく周囲の空気を曙色に変えてしまいそうな穏やかで美しい容姿は、お若い頃から変わることはない。でも、ある時期の節子さんには、それが何が原因のなのかはしかとは捕まえ切れないような、かすかな、ごく幽かな「くずれ」がある気がした。
それが女性の人生の中のあるべき起伏と見ればそうかも知れないし、あるいはそのお写真を見るわたしの側の何かの僻目なのかも知れない。
それでも。ああ、節子さんにも幽かな「くずれ」はあるんだな、という思いが、却ってこの方への憧れを厚くする。
うちの前を行く中学生を見て「お年ごろだな」と思うその成分は、「楽しそうだな、でもしんどそうだな」「ともかく短期間にいろんなことがあり過ぎて大変だよね」という思いと、「完成を前にした崩れの時期ってしんどいけど必要だよね」ということだ。
とんでもないウロ覚えの記憶だけれど。むかしむかし、わたしが中学生の頃。「小学生の頃はレゴブロックにまみれていた」と言っていた男友だちが、「自分でオリジナルで何かを作るときは、まずざっくり緩めに作るんだ。足元からきちきち完璧にやるんじゃなくて。それで、ある程度のところまで作って、あ、これでいけそうだと思ったら一度崩す。全部バラバラにするわけじゃなくて、ゆるゆるだったところを崩す。崩してそこから完成を目指す」と言っていた。
洋服の仕立てのプロセスに「仮縫い」というのがあるけれど、ゆるく作ったものを一旦崩す、そこから本縫いをするのと同じ?と聞いたら「ぼくは家庭科やってないから、洋服のことはわからないけど」と言われた。わたしもわかっていたわけじゃない。
うちの息子にそれを教えるべきか、それともそんなセオリーは本人が自らひねり出していくべきものかと、手ぐすねひいている間に、息子はレゴをスルーして小学6年になった。
息子が乳児だった頃。小さい爪は頻繁に切らねばならなかった。そしてその爪切りの度毎に、「わぁ またツメが大きくなっている」と驚いたのだ。爪の面積が、1週間やそこらの間に確実に大きくなっている。
もちろん爪だけではない。手指も足の指も、手足も体の各パーツも目も鼻も口も。生まれ持った形質のバランスをきちんとトレースしながらじわりじわりと確実に拡大しているのだ。なんという精緻さ。これってすごい。
6年の運動会。身長152センチのわたしは、自分が「小さくて少々古びた大人」になっていることを砂ぼこりの中で確認させられた。競技にはなにひとつ出ていない。出ていないにも関わらず、その日、空になったお重箱を下げて帰宅したわたしは、自分の身長が2センチは縮んだじゃないかと思うくらい体のやわらかさを失っていた。
それに引き換え、あの子たちは何だ。伸びる伸びている。手足のサイズも、その可動範囲も巧みさも。1年生の種目の運動場と6年の種目の運動場では、広さが全く違って見えた。
小さい頃から知っていた子どもたちの顔立ちが、どうやら「おとな」に近づき始めている。ここだけのはなし、男の子も女の子もちょっとごつくておさまりが悪い。小さい頃の成長が、比較的「均衡」を保った成長だったのと比べると、かなり荒削りなアンバランスな「成長」の仕方だと思う。これは成長のスケールが違うせいなのか、「骨格的完成」の前の「くずれ」なのか、あの男友だちに聞いてみたい。
ともかくみんな大きくなった。いやますます大きくなる。中学生なんて「メキメキ」って音が聞こえそうだ。
いろんなことが未完成過ぎた自分の中学時代。既に「容姿」への感性だけは残酷なほどに研ぎ澄まされていた。何とかなるかな?という自分の容姿への淡い期待は、中学の後半も過ぎれば「あは。だめじゃん」と、脳内自己イメージの修正を余儀なくされた。「ジンセイ、そううまくはいかないわね」。クラブ活動と、定期テストと、友人関係と親との衝突と。いろんなことに「まみれ」ながら、「ひとはうまくいってるのにな」という舌打ちしたくなる日々の苦さを、いつも結局何かに「まみれ」ることで紛らわせていた。
そうでもしなければ、幼い頃からの自分の顔立ちが、一旦崩れて、また別の方向に固まっていく過程なんてじっと黙って見てられるもんじゃない。
崩れるなら崩れるで、もっともっと「清んだ何か」と「理想的な容姿」を求めたいのに、わたしのゲンジツがそれを許さない。。。
あの頃、愛知の中学はいつも校舎のどこかのガラスが割れていて、いつもどこかから牛乳由来の雑巾の匂がしていた。それでも、クラスに一人か二人、(クラス編成というのは本当にいろんな意味で「神の手」ががっていると思うのだけれど)わたしの憧れる「清い」佇まいを持つ少女がいた。神さまは罪作りだ。そう思って見ていたものだ。
「清い」少女は、同い年のわたしの目には、何の「崩れ」も「ゆらぎ」もなく、ただ湖面をゆく白鳥のようにすいすいと、すいすいと。割れた玄関ドアや雑巾の匂いの中をそこだけ清い水面に変えて、きれいな涼しい横顔で渡っていくように見えていた。
もしかしたら違っていたのかも。バルテュス夫人の節子さんのお写真を拝見していて、あの頃から堆積していたある種の「僻目」にわずかな風穴が空いた。
どんなひとも、微細な微細な「くずれ」をその都度その都度補いながら「今」を作っているのかも知れない。
ちょっとお髭が生えてきた詰襟くんや、手足ばかりが伸びすぎて居心地悪そうにしているセーラーさんを見ると、「今がいちばんゆらぎの大きいとき、しんどくって危ういけど保ちこたえて」と老婆心を発動せずにはいられない。
おばさんだって、こう見えてもゆらいでいるのさ。おばさんだって、ときどき「お年ごろ」になるのさ。そんなこと言うときっと「キモ!」って言われるに決まってるけど。「ゆらぎ」仲間よ、君たちの今の「ゆらぎ」の真ん中をどうどうとゆらゆらと行け。
※ 5枚目から数回登場している写真は、先日見つけたわたしの中学時代の櫛です。私物の持ち込みが禁じられていた学校生活で、ほとんど唯一「校則」の縛りから逃れていた携帯品。あまりに古くてアンティーク感あって、自分でもキモイのにアップしてすみません。
テレジア
もうかなり長いこと お邪魔することさえしていなかった テレジアです。一段と文章 というより、
見方とか視点が素敵になられて、あ~、羨ましい と感じています。
私は、娘たちにパソコンを占拠され、ほとんど触ることが出来ずにおります。
暮らしの中のあれこれをうまくできないことが多くて、日々工夫しているといえば、格好いいけれど、
失敗の繰り返しです。時々読ませていただきます。
サヴァラン Post author
わぁぁぁぁぁ。テレジアさん!!
ようこそ。そしてよくぞ探しあててくださいました。
コメントをありがとうございます!
お嬢さん方は、お元気ですか?
テレジアさんは お変わりないですか?
>娘たちにパソコンを占拠され、ほとんど触ることが出来ずにおります。
いいなぁ、と言ったらいけないのでしょうが
なんだか微笑ましくて羨ましいです。
うちのろくねんせい、
只今かなりたいへんなことになっております。
でもまあ、彼に言わせれば
「うちのおかあさんかなりたいへん」ということだと思いますので
ここはお互いに「我慢の落としどころ探し」だと思っています(笑)
そんな日常を綴らせていただいているこの「やさぐれ日記」は、
本当にお恥ずかしい拙文&よろよろ運転で
果たしていつまで続けられるか……。
ともあれ
このサイトはみなさん素敵で素晴らしいライターさんばかりですので、
お嬢さん方のパソコン占拠の合間を縫ってどうぞ他のページにもお運びください。
40代、50代の日々の工夫が満載♪
こちらは太鼓判です!!!
つまみ
サヴァランさん、こんにちは。
2枚目の写真の中のタイトルは見逃して、気持ちを持ってかれて読み進み、なんだか最近読んだ小説を思い出すなあと読み終わったときに現れた写真に驚きました。
まさにその小説が『エブリシング・フロウズ』でしたので。
サヴァランさんの今回の文章は、この小説に感応した部分もあったのではないかと勝手に思っています。
目に見えること、形に現れること、に必ずしも気持ちを添わせる必要はない、でも視ることからはじまる気持ちはわりと重要だと思うようになりました。
言葉にするとすっごくあたりまえなんですが、どちらかというと、明らかに見えること、姿形、を私は軽視してきた気がするんですよね。
サヴァランさんの文章を読むと、それをちょっと後悔してしまいます。
サヴァラン Post author
月亭師匠~~~
コメント、ありがとうございます!
2枚目のぼけぼけ写真、掲載意図が不明すぎてすびばぜん。
『エブリシング・フロウズ』
実は、師匠のブログを少し前に読ませていただいていて
「読まねば!」と思ったんです。
ご報告が後手にまわってこれまたすみません_(._.)_
ここだけのハナシ
上の駄文を書いたのは、火曜の朝、ぎりっぎりでございました(-_-;)
これまたここだけの話し
連休は台風よりたろうが荒れまして
わたしも大人気なく荒れまして
「もう、おかーさんにはなしかけないで!」とか
午年同士の鼻息の掛け合いをしておりました。
鼻息対決の傍らで
わたしは師匠お薦めの『エブリシング…』を
「なんと臨場感あふるる環境であることか」と思いつつ読了しました。
蘇りました。あの頃が。。。
外は台風
ウチも台風
それでわたしがしたことは
「エブリシング…」の写経です(-_-;)
写経と言っても
「この表現が印象深いなー」という箇所だけを
ワードパッドにカタカタと。
そんなことより、あんた火曜の「やさぐれ」どうすんの??
もう一人のわたしが右の耳にささやき続けておりましたが
わたしはすっかり中学生@47歳の心理でおりますので
「ぎりぎりでもなんでも書きますったら!
もういいから、静かにして!!」って、ひたすらカタカタ。。。
そんな「写経」の中で、我ながら「ぷっ」と吹き出したのはコレ↓です。
>「お帰り。写真乾いてた?」知らん、とヒロシは答える。
>なぜ母親は、一つの内容で一回の発言を済ませることができないのか。
火曜の朝はさすがにわなわな震えがきておりました。
朝食の片づけや洗濯物を干しながら
「あーた!マジ書けるの??今から間に合うの?
だいたい何を書くかも決まってないんじゃないの??」
そんなこんなで。
エプロンで手を拭いて、ガタガタぶるぶるしながら書かせていただいた
上の拙文。
なんだかいろいろとっちらかってます。。。
「エブリシング・フロウズ」に感化されるにも程がある!と
師匠に笑っていただければ本望です。(笑)
パプリカ
サヴァランさま
こんにちは。
パソコン故障で天井桟敷席へひっこんでおりました。
節子バルテュス
松井冬子
固有名詞が刺さりましてごじゃります。
2年くらい前に横浜で『松井冬子』展があったのを
みのがして私もとても残念に思っています。
観ておきたかったです。
サヴァランさんの
切れ味鋭すぎる感性は
写真の選別にもよくあらわれていますよね。
最近の写真はピサの斜塔のお写真。
一点の曇りもない空の青さに
ハッと致しました。
割れたガラス窓の中でさえ
清い佇まいを持てる美しいの少女は
サヴァランさんの思い出の中で輝くミューズ。
鋭さと優しさをもった
アートな視点を持つサヴァランさんは
比喩でいえば、1990年代の雑誌『SOEN』とか
『マリ・クレール』中央公論社時代
思い出します。
サヴァラン Post author
パプリカ さま
お返事が遅くて
ほんとにほんとにすみません。
節子さまもさることながら
松井冬子さんも
ひとを惹きつけるひとだと思います。
最近では
ああしたアートの世界に
ご本人そのものが「アート」な方が続々登場されますよね。
それもかなりエッジの効いた
異世界を彷彿させるレベルのアート美人。。。
「天は二物を与えず」という前世期のことわざの衣の裾を
しかと握って放したくないわたしとしては
「そんなの聞いてないぞ。聞いてないぞ。聞いてないぞーーー」と
自分が大声で山に放ったこだまを
空しくわが耳に受け取る今日この頃でございます。
でも考えればむかしから
「ミューズ」とか「ファムファタル」と呼ばれる女性は
折々にちゃんといたわけで。
ああ、なれなかったわ。わたし。
えええっ!!なれるつもりでいたの?>わたし。
アートにお詳しいパプリカさんの
ミューズ論
ファムファタル論も
機会があればお伺いしたく。
いつも素敵なコメントをありがとうございます。