読まずに書こうとしたり、観ずに撮ろうと したり。
少し前に、淀川長治さんの著作を読んだ。
淀川長治さんは僕が子どもの頃から、テレ ビの日曜洋画劇場の解説をされていて、番 組の最後に「サヨナラ、サヨナラ、サヨナ ラ」と三回お別れを言うスタイルが定番と なっていた。
余談だが、あの三回言うスタイルは、最初 は回数が決まっていなかったらしい。その 日の放送の残り時間に合わせて、適当な回 数「サヨナラ」と言っていたら、それが子 どもたちの間で「今日は何回いうか」とい うのが賭け事の対象になっているという話 を聞き、三回に固定したのだという。
そんな気のつかいかたは、淀川さん特有の ものではなく、公に声を発する人たちの当 時のスタンダードな気遣いだったような気 がする。日々の暮らしの中でどうであった かは別にして、公に何かする人たちの気遣 いは、ある意味、今の人たちよりも優し かったような気がする。
そんな淀川さんも媒体によって、言うこと が大きく変わった。本質は変わらないのだ けれど、例えばテレビではあまり過激な事 は言わなかった。言わなかったけれど、 時々、本音を臭わせるパフォーマンスはと ても面白かった。
ある日、『恐怖の報酬』というフランス映 画の名作のハリウッドリメイクを放送し た。映画放送前の紹介で、淀川さんは言 う。
「さあ、フランス映画の『恐怖の報酬』と ハリウッドの『恐怖の報酬』どっちが面白 いか、よくよく観てくださいね」
そして、放送後、「さあ、どっちが面白 かったですか。なに?え?元のフランス版 のほうが面白かったって?あんた、まあ、 そんなこといいなさんな」と笑いながらい うのである。
また、ある日は何も見所のない、たわいの ないB級SF映画を放送した。その時の解説 が振るっていた。
「さあ、映画はいかがでしたか。みなさ ん、淀川長治は、まっすぐ前見て話してる だけやと思てはるんじゃないでしょうか。 違いますよ、右も向けば左も向くんです よ」と言うと、本当に右を向いて左をむい て、「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」と 終わってしまったのだった。
嘘のつけない人だったんだなあと思う。そ して、真摯な人だったんだと思う。
もう、だいぶ前から、映画を撮りたいと言 いつつ、映画なんてほとんど観ていないと いう人をたくさん見てきた。学生だけじゃ ない。いい歳をしたオッサンが「これから ドラマを撮りたいんですよね」と言いなが ら、脚本も書いていないという現状を目の 当たりにしてきた。
雑誌を作りたい、という若い人たちが自分 の好きな雑誌だけを読み、その他の文学作 品を一切読んでいないという事実を目の当 たりにしてきた。
誰が、本も読まないような編集者が作った 雑誌を読みたいと思うのだろう。誰が、映 画やドラマをきちんと観ていない人の映像 作品を観たいと思うのだろう。
淀川さんはかつてこんな話をしていた。
「たくさん本を読んで、たくさん映画を観 なさい。たくさん読むと頭がよくなる。頭 がよくなると、今よりももっと読める本が 増えて、観れる映画が増える。物事の根本 がわかるようになる」
教育というのは、ようするにもっと読める ように、もっと観れるように、そして、 もっと考えられるようにしてあげることだ と思う。
でも、いまの教育の現場は残念ながら、そ んなふうには出来ていない。学生を退屈さ せないように、ドロップアウトしてしまわ ないように、という事ばかりに力を注いで いる気がしてならない。
だから、考えることから逃げて、考えるふ りばかりがうまくなる。
もう、そういう人たちが現場にも増えてい て、社会に切り込んだふりをした記事や、 正義を振りかざしたふりをしたスクープに あふれている。
そんな中で、かつて淀川さんが言ったよう に、もっと読んで、もっと観て、もっと考 える、という人が本来持っていた力を強く するための努力が一番大切なのだというこ とが、試される時代が来たのだなあと思う。
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植松眞人(うえまつまさと) 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。 現在、神楽坂にあるオフィス★イサナのクリエイティブディレクター、東京・大阪のビジュアルアーツ専門学校で非常勤講師。ヨメと娘と息子と猫のマロンと東京の千駄木で暮らしてます。
★これまでの植松さんの記事は、こちらからどうぞ。
つまみ
uematsuさん、こんばんは。
よけいなものや一見ムダなこと、寄り道や回り道、しくじりややり直しって、全然ムダでも失敗でもない・・と大人になれば思うのですが、毎日ではないものの小学校に顔を出す仕事をしていると、小学校的にはそれらはほぼ×で、そういえば自分もそんな風な教育を受けてきたなあと思い至ります。
カンタンに正義を語り、得意げに正論を振りかざす人って薄いなあと思いますが、その薄さは、触れてきた、触れようとしてきたモノたちやそれに対する気持ちの質量のような気がします。
本でも映画でも音楽でも思考でも、最短距離や効率や咀嚼しやすさだけで選んでしまうと、書割みたいな世界しか見えなくなる、感じなくなる、というか。
薄さって、本人はバレてないつもりでもバレバレですもんねえ。
・・なあんて、自分はどうなんだよっ!と今思いましたが、自戒の気持ちもこめて送信します。
アメちゃん
おはようございます!
淀川長治さんといえば、たしかずーっとホテル住まいでしたよね。
学校で勉強したことって大人になって役立たない、、みたいに言う方がいますけど
そーなのかなー??と思います。
学べば学ぶほど、いろんなことが楽しくなってくるような気がします。
知識が増えたり、ボキャブラリーが増えることは
思考の選択数が増えることでもあるので、生きる上で短絡的にならなくてすみますよね。
私は小学校の理科の時間、細胞のしくみを習った時に
動物の細胞と、宇宙のつくりってそっくり!!と気づいて以来
大人になった今でも、宇宙とか人体とかそーいうものを想像するときワクワクします。
もうこれだけで
「サンクス!理科の時間」と思います。
よけいなこととかムダなことが、熟成とか深みになるんでしょうね。
私ももっと、本を読んだり映画を観たりしないと、、と思いました。
サヴァラン
uematsuさん、おはようございます。
いきなりですが。
わたしはこの夏Twitterで
あの○山英夫先生に少しだけ意見を書かせていただきました。
小学生の夏の課題のマル付けを親にさせるのは問題だ
教師が責任をもって自分でするのが教育効果上ベストだという
先生のご意見でしたので、
「そうですか?」と書いて、
「いろいろなご意見ありがとうございました」と言われました。
(↑これも「公のひとのみせる気遣い」のひとつか笑)
夏の課題を教師がマル付けするのは
「そこ」だけ見ると
「忙しいのになんて素晴らしいフォローだ!」ということになるかと思いますが
わたしは
「親にさせてもいいんじゃね?」
「雑でも不正確でも生徒本人にさせてもいいんじゃね?」と
思っているのです。
先生が全部をフォローする必要はない。
生徒や親がマル付けして
生徒が自分でそのマル付けのフォローをすれば
たとえそれが少々不十分な作業を含んだとしても
長い目で見て
学習サイクルを身に着ける「学び」になるんじゃないかな~と
思ったりして^^
ええ加減なマル付けすると
結局自分にかえってくるぞ、みたいな。
(でも、これ、本気で指導しようとすると
それはそれはロングスパンの忍耐努力が
先生と生徒の双方に必要になってくるわけですが)
大人が回すカメラの作動が
狭域、短時間で、インスタント過ぎないか?
と思います。
レンズを変えて
もっと長まわしして
もっとぐいーーーっとパンした方がよくなくない?
とも。
教える側の「愛情」や「情熱」
「決め打ちピンスポット」のそれじゃなくて
「すこし愛して。なが~く愛して♡」と言ってみたりして。
大原麗子さんにはなれませんが(笑)
uematsu Post author
つまみさん
本当にそう思います。
特に薄っぺらな正義は世の中の毒だとまで(笑)。
自分のことは棚に上げてでも、
薄さを嘆くことが大事なんじゃないでしょうか
uematsu Post author
アメちゃんさん
無駄なものって本当になかったんだなあ、と思います。
でも、スマホいじったり、ゼームしたり、という時間つぶしは、ちゃんと暇を実感できないのでどうだろう?と個人的にはおもいます。
無駄にもなり切れていない感じがします
uematsu Post author
サヴァランさん
教育は時間との戦いですねえ。
家庭で躾けられないで、
世の中に出てきた子供たちは、
まさに野獣です。
まあ、小さなうちは可愛げもありますが、
そこそこ大きくなると、
本当に鬱陶しい(笑)。
こちらも、高倉健さんみたいに、
「不器用ですから」なんて、放置してればいいんでしょうが、
そうもできない悲しさ全開。
くるりん
答えだけを、即、知りたい。自分が知りたい答えだけを。
…今の世の中にはこんな大人や子供がたくさんいて、生きることを楽しむ、という能力が育っていないなぁと感じる場面が多いように思います。
検索して即答えが得られる。
必要だと思うものはたいてい手に入る。
調査や思考を重ねた上での議論やそこでのスリリングな意見の擦り合せ。正解に近づいたと肌で感じる喜び。
どうしても手に入らないものを何かで代用してやりくりしたり、自分の手で作り出す喜び。
…喜びって自分が動いていないと手に入らないし、その過程でおまけやご褒美のように時折得られるのが幸せなのかなと思うのです。
一見無駄がなく、最短距離でクリアし続ける人生を送っていたとしても…それって生きてるのかな?幸せなのかな?(<大きなお世話かもしれませんけど汗)
今回のお話を拝読して、私も…ドラマを撮る、てちゃんと生きてないひとには無理なのでは…と思いました。たくさん観たり読んだり、も もちろんですが、自分の人生をもがいてないと、作品には何も映し出されないように思えます。ただの切り取られた風景でしかないと思います。
あ。私は保育園で籐かごにブロックを入れて振り回していたときに”落ちない”と気づいてなぜなのかいろいろ実験したことと、小学生の頃に学校で習っていたすべての科目がリンクしていることに気づいて叫びたいくらい嬉しくなったことが、学ぶことの楽しさに目覚めたきっかけでした。
そして今も、いくつになっても新しく知ることがたくさんあって…自分以外のすべての存在は教師足るなぁ、と感じています(^-^)
脱線&長文失礼しました☆
uematsu Post author
くるりんさん
全然、脱線してませんよ。ありがとうございます。
あれもこれもとあがいている真っ最中に、あれとこれがこんな風につながっていたのか!
と気付く瞬間の感動って、ありますよね。
すねて、ひねくれるのはいいけれど、
いろんな意味で、自分と外部との扉を閉じてしまうのは、
本当にもったいないなあと、心から思います。
カミュエラ
大分大分前、淀川さんがインタビューで、母親が自分にとっては最高の(理想の)女性であったために、他の女性との結婚は考えられなかったこと、時々素っ裸で庭?を走り回ることなどをお話されていたのですが、淀川さんのお人柄、ひたむきさを前にすると、これらの変人ぶりもかえって清々しいと言うか、愛らしいと言うか、もう手を合わせて拝みたいような(笑)尊ささえ感じました。
小手先の器用さ、賢さばかり追っていたら、本当に必要な力は身につかないのかも知れませんね。
時間はかかっても真摯に努力を続けていく事でしか得られないものは、手にした人にしか分からない喜びですね、きっと。
淀川さんと植松さんの言葉に背中を押されましたよ。これから毎週末息子と一緒に良い映画たいしたことない映画たくさん観たいと思います!
uematsu Post author
カミュエラさん
そう言っていただけると、嬉しいです。
人と違うことをこれほど気にしなきゃいけない時代って、
本当に気持ち悪い。
世界中には、真摯で一生懸命な愛しいアホどもがいっぱいいますからね。
そういう奴らが世の中を変えているんだと思います。