初めてのアルバイト
こないだ仕事に疲れて、「あ~、もう仕事したくない」と思ったのだけれども、そう言えば、初めて仕事をしたのって、いつだろうと思い返してみた。
家の用事や学校の委員会とか、そういうことじゃなくて、ちゃんとお金をもらって仕事をする、ということだとやっぱりアルバイトではなかろうかと。
だとすると、高校時代にやった新聞配達だ、と思ったのだが、いまふと思いだしたのだった。あった、もっと前にアルバイトをしたことが。
確か中学一年生の頃だった。ある日、うちの母親が僕に改まった声で聞くのだった。
「あんた、アルバイトするか」
なぜか神妙な表情の母。
「なんのアルバイト?」
と聞き返す僕。
母が言うには、近所の団地の掃除だという。
うちの母親は学校や団地など、いわゆる公共施設の清掃をする団体にパートのような形で仕事をしていた。
朝、その事務所へ顔を出して、今日はどこそこの学校、来週はあそこの団地、と指示されたところへ仲間たちと出かけて、掃除をする。
そんな仕事のどこに、中学生がアルバイトできる隙間があるというのだろう。そう思っていると、母がさっきまでの神妙な面もちなど忘れたかのように、今度は自信たっぷりに言うのだった。
「あんたも、もう立派な大人や。大人のフリして掃除しなさい」
つまり、中学生のバイトではなく、大人のフリをして、掃除の頭数に加われば、バイト料が入ってくる、という話のようでした。当時の僕はステレオ装置がほしくてたまらなかったので、その話にのっかることにした。
次の日曜日、朝の7時から近所の団地の公園に集合して、僕たちは掃除を始めた。母と僕、そして、母が日頃から一緒に仕事をしている人たちが二人ほど。どうやらこの仕事、イレギュラーに入ってきた仕事を母が胴元のように受けたようだった。つまり、いつも仕事をもらっている団体には内緒。ということは、いつもよりも実入りがいい。そして、どうせなら身内で稼ごうと強欲なことを考えたのではないだろうか。
ただ、母も調子に乗って僕に「おまえも立派な大人や」と言ったものの、僕は当時身長も低く、髪型だってぼっちゃんがり。どう見ても中学生。学生服じゃなければ小学生に見えたかもしれない。
母も当日の朝になってそう思ったのだと思う。我が子は自分が思ったよりも子供に見える。その事実に愕然とした母は、僕の見た目を偽装し始めた。
僕は母のモンペのような作業ズボンをはかされ、父の古着のジャンパーを着せられ、サングラスをして、マスクをして、帽子をかぶるという信じられないくらいに奇妙な格好をさせられたのだった。
いやもう、怪しいだろう。ぼっちゃんがりの背の低い中学生が、サングラスして帽子かぶって、マスクして、ジャンパー着て、モンペはいて掃除してるんですよ!
まあ、約束していた範囲の掃除が時間内に終わればそれでいいというもんではあるけれど、あきらかに「中学生ではありませんよ」と声高に中学生が叫んでいるという訳の分からない感じになっている。
吉本新喜劇で、間寛平が「ここには誰もおらんぞ」と人が隠れているロッカーを指さしているようなもんだ。
そういうわけで、僕のことを怪しんだ団地の組合の会長さんみたいなおばさんが「いつも、お掃除の仕事をしてるのかな」と明らかに子供に話しかける口調で探りをいれてきたのだった。
しかし、僕もここで子供だと自ら認めるわけにはいかない。あくまでも背は低いけれど大人の男であることを示さなければいかん、と僕はがんばったのだった。
「はい。わたくし、清掃業務はもう五年になります」
と、僕は声変わりしていない高い声をのどの奥で押しつぶして答えました。
会長さんはなんだか失笑気味に笑って、
「そう。ご苦労様です」
と言いつつ、振り返り振り返り去っていった。
セーフ! 僕は心の中でそう叫びながら掃除を続けたのだった。しかし、会長さんも諦めません。その後も、何度か僕に近づいてくるのだった。
「あら、もうお昼だわ。おなかすいたでしょう」
「いえ、わたくし、年をとってからは、そうおなかも減らなくなりましてございます」
もう、中学生がなにを言っているんだか。
そして、その直後、その日いちばんのピンチが訪れたのだった。
「おう!うえまつ!」と聞き慣れた声がする。おそるおそる振り返ると、友人が立っていた。
「いえ、わたくし…」
「わたくしって、なに言うてんねん」
友人はそう言って笑った。しばらくとぼけていた僕ですが、友人に通じるはずもない。僕は友人をすべり台の陰に連れて行くと事情を説明した。すると、そいつが「わかった。内緒にしとく!」と物わかりのいい返事をして立ち去ってくれたのだった。
こうして、僕の初めてのアルバイトはドキドキハラハラのうちに終わったのだった。
母からもらったアルバイト料はおそらく相場の半分ほど。まあ、母親が胴元ならそうなるわなあ。しかも、翌日の月曜日、僕は団地で会った友人に学校帰りアイスクリームをおごらされ、取り分は本当にわずかなものになったのだった。それでも、働いて現金を手にする喜びというか、感激というか。そういう気分は今でも覚えている。
そして、これを書きながら思ったのだが、今でも名刺の肩書きに『コピーライター』とか『クリエイティブ・ディレクター』なんてよくわからないことを書いて、あわよくば、うまいこと仕事をこなそうなんて思っている間は、サングラスやマスク、オヤジのジャンパーで自分を大人に見せようとしたときと、そんなに変わってないんじゃないかなあ、などと思ったりもするのだった。
植松さんとデザイナーのヤブウチさんがラインスタンプを作りました。
ネコのマロンとは?→★
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クリエイターズスタンプのところで、検索した方がはやいかも。
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植松眞人(うえまつまさと) 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。 現在、神楽坂にあるオフィス★イサナのクリエイティブディレクター、東京・大阪のビジュアルアーツ専門学校で非常勤講師。ヨメと娘と息子と猫のマロンと東京の千駄木で暮らしてます。
★これまでの植松さんの記事は、こちらからどうぞ。
カミュエラ
「はい。わたくし、清掃業務はもう五年になります。」ってもう・・・・・(笑)
必死な植松少年の顔が思い浮かび、おかしいやら可愛いやらで涙目になってしまいました。
私の初めてのアルバイトは18歳の夏休み、仙台から苫小牧を往復するカーフェリーの中のレストランでウエイトレスをする仕事でした。夏の忙しい時期の二週間だけ、フェリーに寝泊りして休日はなしで働きました。
楽な仕事ではありませんでしたが、バイト料は7万円で、当時の私にとっては大きな金額でとても嬉しかったのを覚えています。
uematsu Post author
カミュエラさん
人間、とっさの時には妙なことを答えてしまうもんですね。
まあ、だいたい、どこかで見聞きしたことであったり、ドラマで見たことであったりするでしょうけど(笑)。
カーフェリーのアルバイトもなんだかいろんなドラマがありそうですね。そして、2週間で7万円は十代にはかなりのインパクト!
十代の頃の労働体験って、その後の仕事にいろんな影響を及ぼしそうです(笑)。
nao
「いえ、わたくし、年をとってからは、そうおなかも減らなくなりましてございます」がツボで声をあげて笑ってしまいました。
必死なほど可笑しいってどういうことでしょう(笑)
植松さんのところでは中学生はアルバイトできなかったのですか?
うちの田舎は、私くらいの年代だと小学校高学年くらいにはクラスで何人か新聞配達や牛乳配達をしている男の子がいました。
私自身は大学生になってからケーキ屋の売り子が初めてだったと思います。
uematsu Post author
naoさん
小中ではアルバイトしている子はたぶんいなかったですね。
禁止されていた気がします。
でも、実家の商売を手伝っていた子はけっこういました。
八百屋さんとか、果物屋さん、食堂とか。
僕は家の商売をしている子を見ると羨ましかった覚えがあります