〈 晴れ 時々 やさぐれ日記 〉 「 ああ、対話。賛成と反対のあいだ 」
――— 46歳主婦 サヴァランがつづる 晴れ ときどき やさぐれ日記 ―――
まことにお恥ずかしいことですが、主人とただいま冷戦中です。およそタイプの違うニンゲン同士、今までの統計では3カ月に一度くらいの割合で寒波が訪れます。わたしは主人を「オヤジの石頭」、主人はわたしを「すっとこどっこい」と呼びます。失礼千万な!
主人は徹底したデジタル人間。0 か 1 か。考え方のすべてがそれで決まります。一方わたしは超ド級のアナログ。0 と 1のあいだに ありとあらゆるど~でもいいグラデーションを抱えこみます。
今年の春の陣。いくさの発端はたぶん子どものことでした。何がどう どの言葉がどうというわかりやすいきっかけはありません。主人に対する怒りの水が少しずつ少しずつ温度をあげ、沸点に達したときがこれ即ち冷戦のスタート。
つまりあれです。いくさをしかけるのは常にわたし。三百六十五日超恒温動物の主人は、怒りや不満のメーターがありません。おまけにわたしの機嫌を感知するセンサーもありません。で、ある日突然わたしから寝首をかかれる。
こちらは温度を上げてくるあいだに、着々と ありったけの いくさ用のことばを備蓄して、その使用順も念入りに考えていますから、いったん封を切ったわたしの口からは、それはもう自分でも気持ちがいいほど 手裏剣シュッシュッでございます。
弁解のために申しますが、わたしのいくさは意外と静かです。静かに鋭く攻める。いくさの作法として一応そのようなしきたりを自分に課しております。
怒りメーターの無い主人も、この攻撃のおしまいには顔を赤くし、息を深く吸い、「そうか。そこまで言うのか」と椅子から立ち上がります。
だがしかし。
このひとの次の言葉は、わたしのそれまでの努力(?)を水の泡にします。
「 だったら わたしは もう知らない 」
ぬぬぬー。「知らない」ですってー。ゼロにするですってー。それがおかしいと言ってるのにー。わたしが再三言ってるのは、そのゼロとイチとのあいだのところを お互い無い知恵を絞ってじっくり話しをしようってことなのにーーー。
「 ゼロかイチか。わたしはそういうタイプのニンゲンだ。考え方のタイプの違うニンゲン同士は、結局完全にはハナシは通じん。」
ぬおーーー。完全開通はしないハナシを 針の穴ほどでも通じさせましょうと あれほど静かに話しているのに、トンネルを掘る前から背を向けるとは おヌシはそれでも武士かーーー。
何かを迅速に実現させるためには、主人のような考え方が最も理に適っていることは、このワタシでもわかります。ゼロかイチかの見極め。それによる着実な進展。でもですね。短期的にはそれが有効な結果を生んだとしても、長期的には芳しくない結末にいたるってこともあるではないですか。ゼロとイチのあいだで切り捨てたものの中に 拾い上げれば何かに育つ 眠れる種だってあるじゃんじゃあないですかいと、わたしは毎回くいさがります。
主人が返す言葉は決まってこうです。精度や術法を練りすぎると好機を逃す。深謀遠慮のつもりが、結末が早まったり 不測の事態に陥ることも十分ありうる。だからまず、足元の駒を一つでも着実に前へ進めておくべきなんだ。
だーか-らー。あなたとわたしのあいだを考えましょうと あるいはごろんと両方を一気飲みする方法でもいい、とにかくもっとポジティブな新規航路を考えましょうと わたしは毎度訴えてるんじゃありませんかー!そのこちらからのチケットを 封筒ごとゴミ箱にポイするとは、あーたはどんな石頭ですかーーー。わたしはもう全身全霊で、あーたのその石頭をコンマ数ポイントでも軟化させるからみてらっしゃいー。
すみません。お聞き苦しいことを。
でもですね、わたしは思うのです。 対立より対話。ゼロ or 1の進展より、0.01 の歩み寄り。 賛成か反対かの二者択一や完全合意の理想より ゆるやかな落としどころを探り探りゆく現実。わたしゃ どーしてもそっちの道を選びたいなーと。
先日 子どもが所属する小学校の合唱団のささやかなコンサートがありました。今年度は指導の先生の交代や、もろもろの応援体制の変更があり、若干不安要素のあるコンサートでした。コンサートの終了後に保護者のあいだで多少のいきちがいがあり、「みんなで何かをする」ことの難しさをこんなところでまた改めて痛感させられた次第です。
「みんなちがってみんないい」。 一見のどやかにも はたまた多様性への賛歌のようにも聞こえるこの一節。「みんなちがってさあたいへん」ということが、どうやら暮らしのそこかしこにある気がします。
意見の違いを恐れて「黙ってしまう」ことにどうしようもない息苦しさを感じます。「黙ってしまう」ことの隔たりやこわばり、「黙ってしまった」結果の不満の洪水に怯えます。「言いっぱなし」のやり方も、双方からの刃の投げ合いも、土が荒れるだけで木は育たない。。。
意見は必ずくいちがう。でもどこかに着地点を探したい。そのための、息長く、我慢強い、静かな対話。お互いの主張へのゆるやかな想像力、そしてときにぷっというユーモア。。。わたしは今、冷戦の渦中にあって さらなる闘争心を膨らませます。あのワカランちんをどこから笑い崩すか。
あれ?ふかっけたのはワタシ?これってワタシの一人相撲? ? ――― でもいい。わたしは誓います!全力で落としどころを探し続けることを。ワカランちんの天の岩戸を、ほんの数ミリでも開かせることを。対立ではなく対話によって 持続可能でのびやかな安寧を この家のもとに招き入れることを。そしてそのプロセスを 息子につぶさに観察させることを。
異なる意見のひと同士に対話が成り立つようになること。そこからものごとが、氷河の流れのように動きはじめること。「すっとこどっこい」で、おまけに石頭でもあるわたしは、そのことが実は復興の一端になるのだと思っています。
時間も、エネルギーもかかる。それでもいつかは 青く深い芝生の上に 異なる意見の者同士がソフトランディングする日を 地平線の彼方に夢見ます。 ( 2013.3.12 サヴァラン )
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あやめ
前略
45歳,同居嫁13年まもなく14年目になるものです。
いろいろ,試行錯誤の毎日が過ぎていきますが,サヴァランさんがおっしゃりたいことわかるような気がしてます。
私はこのように冷静に言葉にできずにもんもんとしていましたが,そうそう,
そうなんです!とガッテンしておりました。
最初は悩むだけだった私の解決方法は本を読んでそれをやってみる→通じねえ→通じない人がいる→通じる回路を作っていく作業。私一人だと回路はつながらずショートすることもよくありますが,間に孫(子供)を入れるとつながることもしょっちゅう。乾電池一個じゃつかないLEDも乾電池3,4個つなげればついた!といった感じ。エネルギーが必要なんですね。主に義父母,次に夫に対してもそういった感じです。
最近読んだ平田オリザさんの「わかりあえないことから,,,」という本にサヴァランさんが言うみんなちがってさあたいへんという言葉がありまして,深くうなずいています。
読んでストレス解消になる文章に出会い,感銘を受けた旨,お伝えしたくメールいたしました。これからも素敵な文章楽しみにしております。
サヴァラン Post author
あやめさま あたたかいコメントをありがとうございます。お見苦しい内容ですが、ストレス解消になるとおっしゃっていただいて恐縮です。
数えましたら、わたしももうすぐ結婚から14年になろうとしております。同居はしておりません。はじめの5.6年こそ、夫婦にいざこざは皆無で、このまま一生「凪」の状態でいくものかしらと思っておりました。けれどもしかし、折々の気圧配置に変化は訪れるものでございます。特に原因となるのは、夫婦の単体としての問題ではなく、親、子ども、といったはらからにからむことが多く。同居をなさっているとおっしゃるあやめさまの14年の歳月に深く頭をたれております。
乾電池のおはなし、ポッと灯りがつきました。冷戦というのはエネルギーが乾電池があとひとつふたつ分足らない状態なのかも知れません。子どもがそこに回路をつくってくれるということにも、はたと膝を打ちました。たしかに!あります!あります!そういうこと!
平田さんのご本、実はわたしも読みました。「わかりあえる」という前提を、「わかりあえない」という前提に差し替えれば、そこからわかることも多いはずだと得心しました。金子みすずさんの「みんなちがってみんないい」もたしかなこと。その一方で「みんなちがってたいへんだ」という現実にも、平田さんがおっしゃるようにスポットをあててみる必要がある気がします。
みすずさんの時代は「みんなちがってみんないい」という主張が許されなかった時代。時代変わって今のわたしたちは、「さあこれからどうしましょ」のステージにいるような気がします。異なる意見の人同士、どうやったら穏やかな「すりあわせ」ができるのか。日常がその挑戦の舞台なのだとしたら、あらワタシないしょで女優にチャレンジしてみる?そんなことも考えます。