<第11回>「俺はいいけどYAZAWAはどうかな?」
「ほぼ日」で糸井さんがおっしゃっていたと思うのですが、矢沢永吉さんが何かを決めようとするとき、「俺はいいけどYAZAWAはどうかな?」としばしば口にされるとか。おもしろい言い方だなあと感じて記憶に残っています。「YAZAWA」には、ファンの期待、これまで作ってきた実績やブランドイメージなどロックミュージシャンとしてのすべてが含まれているのでしょう。
永ちゃんほどスターじゃなくても、また永ちゃんほど自覚的でなくても、だれしも「俺」と「YAZAWA」の両面を持っています。私的な「俺」と社会的な、他人の認めるイメージとしての「YAZAWA」の両面を。
男女が出会うとき、最初は、この「YAZAWA」が入り口になります。「スポーツ万能で面白いクラスの人気者」とか「バリバリ仕事ができるのに優しい先輩」とか…(ベタなたとえですが)いずれにしろ、そっち方面が入り口になる。「YAZAWA」から垣間見える「俺」の質感を嗅ぎとって好きになるというか。それが個人的に交際するようになると「俺」の内実が次々に開示される。私的な空間に招かれ、私的な嗜好が開示される。
結婚生活が長くなると、今度は、ほぼ「俺」一色になります。いっしょに仕事をしている場合をのぞくと外で働く様子はなかなか見られないので「YAZAWA」の楽屋裏(つまり「俺」)ばかりが見えるわけです。
政治家や歌舞伎役者、お相撲さん、プロスポーツ選手などは、それぞれの「YAZAWA」像が明確なので夫婦間共有も大変であると同時に容易でもあり、相手が「YAZAWA」でありつづけるために努力をする。内助の功ですね。
なんか、YAZAWAの比喩を多用したせいで訳がわかんなくなってきましたが(笑)、「昼間のパパはちょっと違うから尊敬しなきゃ」、ということが言いたいのでなく、夫婦生活って相手の「ある部分」が非常によく見えるようになるかわりに、「別の部分」が見えなくなるんだと思ったのです。ミクロな相手ばかりが見えはじめるというか。これは、女性から男性についてのみ語っているのでなく、男性から女性についてもいえることだと思います。
どちらもが相手を「こいつ、大した奴じゃねえ」って思いやすい構造にある。もしかしたら、それぐらいがちょうどいいのかもしれませんが、「こいつ、大した奴じゃねえ」かもしれないが、「案外、そうでもないかもしれない」という想像力を適度にもちつづけるのが大事なんだろうなと思います。
「俺」と「YAZAWA」の両面をもつのは男性だけじゃなくて女性も同じです。澤穂希さんが、「あなたが結婚するのは、だれだと思ってるの?『澤穂希』だよ」と婚約者に言ったと、これもバラエティ番組で知りました。どんな女性にも「私」と「澤穂希」はいる。「澤穂希」ほど存在が大きくなくても。自分の目の前にいる妻としての「私」だけにしか関心がなく、パブリックイメージを大事にしてくれない旦那さんはきついでしょう。それは、相手(妻)への敬意と密接につながっていると思うからです。
「人生フルーツ」の英子さんは、樹木希林さんとの対談で修一さんにパリッとした服装をさせるというようなことをおっしゃっていたと聞きました。このご夫婦は、おたがいに「YAZAWA」と「澤穂希」を大事にしつづけた夫婦だったのだろうと思います。敬意を失わなかった。
つまみさんが、英子さんについて「劇場型」(第三者がいることより、自分の心の高まりがさせる行動を優先した心のありようが劇場型だ)と書いていますが、ああ、そんな見方もあるんだ、しかし、確かにその通りだなあ!と膝を打ちました。
あの家には、玄関がなくどこから入ってもよいんですよね。玄関は来客の視点と視界を制限するけど、それをせずに視界開放するのも「劇場型」なのかもしれません。誰が来ても来なくても丁寧に生きる、というのは「観客の内在化」といえるでしょう。「俺はいいけど、YAZAWAはどうかな」の別バージョン。「私たちはいいけど、後の世代の人たちはどうかな」だったのでしょうか。
YUKKE
おぉ、昨日のNHKに中尾彬、池波志乃夫妻が出演していて、まさにそんなことを話していました。
志乃さんの内助の功がすごすぎて、びっくりだった。
毎晩お品書き書いて、丁寧なお料理作って、晩酌を2人で楽しんでるの。
すっごく良い感じのご夫婦に見えたよ。
大断捨離もしていて、これまた見習いたいご夫婦像でした。
バックグランドみせっこできるのも、夫婦だからだよね。
なんだかとってもよくわかります。