【月刊★切実本屋】VOL.19 このたび、趣味がなくなりました。
ずっと「読書は趣味」だと思っていて、そう口にしてもきました。
その気持ちの中には、自分には他にこれといった趣味がないので「読書は人生の必修科目。選択科目(趣味)ではない」などとなった日には、「ってことは、自分は選択科目を履修せず、必修科目だけの味気ない人生を送ってきたってこと!?」と愕然とするおそれがあり、ことさらに「趣味」と言い募ったきたことろがあるのかもしれません。
ところが、人生もバリバリ後半の今になって、「読書は趣味」に対抗(?)する、やたら腑に落ちる読書の定義を発見してしまいました。あっけなく陥落したかも節操がないかも。
まあ。いいか。それは、穂村弘氏の書評集『これから泳ぎにいきませんか』の一節です。
穂村さんは、読書は人生の必修科目と思っています。ですから、「読書は音楽やスポーツと同じように趣味であり、読んでも読まなくてもいい」と堂々と言われると、そういう感覚にある程度の理解は示しつつ、不安と躊躇いを覚えるようです。だから彼は考えます。そして思い当たったのが「読書は言葉」ということ。
楽器やスポーツや本がなくても生きていくことはできます。そういう意味では、これらは趣味として同列なのかもしれません。でも言葉そのものはどうだろう。コミュニケーションに必要だという意味だけではなく、たとえ誰とも会わず一言も話さない日でも、我々は心の中で無意識に言葉を使って生きているのではないか。そういう観点(あくまでもひとつの観点)から見ると、言葉は人生に不可欠なのではないか。
ここから先はまさに穂村節の真骨頂。原文を読んでもらった方がいいのですが(まえがきなのですぐ読めます)、私は言いたがりなので、僭越ながら勝手にゾロメ風味の香辛料をまぶして(せっかくの味を台無しにするリスク大)、穂村理論を説明させていただきます。
物理次元の世界は何ひとつ変わっていないのに、世界が一変することがあります。
恋人の心変わりを聞く、信頼していた人が自分を誹謗中傷していたと知る、ずっとAさんだと思っていた人はBさんだった…。それまでの世界が覆ります。でも、この「世界」とは、万人にとってのそれではなく、あくまでも個人の世界像です。変わったのは前者ではなく後者。そこで穂村さんはこう記すのです。
ならば、私たちがひとつの共通の世界に生きているというのは実は錯覚で、本当はひとりひとりの内なる世界を生きているに過ぎないんじゃないか。
そして、「言葉」がその個人的世界像そのものなのではないかと考えます。人間は、言葉を介することなしに、直に世界を生きることはできないのではないか、と。逆に言うと、それぞれがそれぞれの言葉で作り上げた世界像でしか人は生きられず、同時に、個人の世界像は言葉によって置き換えることが可能である、と。
たとえば、雑音だと思っていた音、ネガティブな精神状態、に名前があると知っただけで、面白く感じたり、妙に安心したりすることがあります。それは、自分が我慢強くなったわけではなく、言葉を知ったことによって自分の世界像が変化したからなのではないか。
だとしたら、読書という行為は、言葉によって自分の世界像を拡げたり変えたり、他者の世界像を知ることができるという意味では、確かに、生きていく上での必修科目と言える…のかもしれません。
なぜ、自分がこんなことを長々と書いたのかといえば、11月の終わりから義母との暮らし第二章が始まって、正直、参っているからです。
義母の歩行と排便は、第一章時より状況が下降していて、介護の負荷は増しています。そこに、秋口から続いている身内の心ない言動。自分の世界像の中でも、ぐったりしていました。
でも、意外な方向からそれを覆す言葉を知りました。10年前に一度だけお会いした夫の知り合いの女性(ピアニスト兼カウンセラー)が、私を「サラッとしたすごさがかっこいい」(大事なので太字にしてみました)と言ってくださったそうなのです。
私は実際、そんな逸材では全然ないし、10年前の自分の、いったいなにが彼女にそう映ったのかまるで心当たりがないのですが、彼女の言葉を聞いて、自分の中にある暗くて深い井戸の底を覗き込んでいたような気分が一掃されたような気がしました。
一掃は明らかに一時的なものです。また漆黒の闇に襲われる気分になるに決まってます、それも近々。でも、いいんだ。未来永劫変わらないものなんてないことを知っているから。だからこそ、かけがえのない瞬間や言葉が、ロートル車である自分の次の給油所までの燃料になること、日常を続けていくコツだったりすること、がわかるのです。
くっそー!舐めんなよ!!…なあんて、自分の世界像を言葉で自由にしたいと、もがく中高年です。
みんな、いろいろあっぺげど、めげねーでがんばっぺ。
…あれ?ってことは、私の趣味はなんなのさ!
【木曜日のこの枠のラインナップ】
第1木曜日 まゆぽさんの【あの頃アーカイブ】
第2木曜日 つまみの【帰って来たゾロメ女の逆襲 月刊 切実本屋】
第3木曜日 はらぷさんの【なんかすごい。】
第4、5木曜日 つまみの【帰って来たゾロメ女の逆襲 ゾロメ日記】
まゆぽさんとの掛け合いブログです。→→「チチカカ湖でひと泳ぎ」
Jane
つまみさん、
大阪地震のあとつまみさんがカリーナさんのピンチヒッターで書かれた「揺れても、間違っても、在る場所で」の数カ所は私の心に大変響きまして、コピペして時折読み返しております。何も燃料になるようなことを書けませんが、つまみさんの言葉で励まされた読者もいますということをお伝えしたく。
どうしてそのカウンセラーさんの言葉がそんなにつまみさんにインパクトを与えたのかな?と考えていたら、つまみさんがご主人ご病気以降のカリーナさんを同じような意味で賞賛されていたのを思い出しました。つまみさんがこうでありたい、と大事にされていることなんですね。
ドロッとした感情を言葉で再構築する過程で昇華されるものありますよね。
つまみ Post author
Janeさん、こんばんは。
いただいたコメント、何度も何度も読み返しています。
そして、カリーナさんのピンチヒッターで書いた自分の文章も読み直し、こんなことを書いていたんだーとしみじみもしています。
励まされたり、インパクトのある言葉って、なにもポジティブだったり強い肯定だったり褒め、じゃないんですよねえ。
もっと日常に寄り添う、エグ味のない言葉っていうか。
カリーナさんに励まされるのは、日常のくるくる変わる心情を、ことさら取り繕ったり、美化したり、自己陶酔方面に引っ張らず、平常心でないことすら恐れずに、負の感情も、時に興奮気味の心情も、開示する潔さと強さがかっこいいと思うからだと思います。
カウンセラーさんの言葉に対しては、やっぱり「強い」と言ってもらえたことがうれしかったんですかね、私。実際、そうじゃないことを痛感してるからこそ。
もしかしたら、自分にも、自分で気づかない強さの芽があるかも、と思えて。
Janeさんのコメント、本当に嬉しかったです。
大げさな言い方に思われるかもしれませんが、自分の居場所が確認できたような気がします。
ありがとうございます!