まだ暗い朝、ソックスを履くときにオバフォーを思う理由。
こんにちは!カリーナです。
みなさま、今日はどんな朝を迎えましたか。ベッドだ、布団だ、寝室だ、リビングだ、旅先だ…と目覚めた場所もいろいろでしょうが、そのときの気分(爽快からユーウツまで)、体調、節々の硬さ、喉の渇き、膀胱の満タン具合なども間違いなく千差万別。一人として同じ状態で起きた人はいないことでしょう。もちろん、まだこの時間はお布団のなか、という人もいるでしょう。
わたしの場合は、まだ暗いうちにスマホで時間を確認することから始まります。目覚ましをかけなくても大体5時台。その音を聞きつけた犬のスーが寝室に全速力で駆けつけ、ベッドに飛び乗って迷惑系目覚まし犬となって尻尾をぶんまわしてからみつきます。5時台前半ならまだ寝て、後半なら「ああ、わかった、わかった」と言って起きます。
冬は、着替えも大ごとです。散歩用の服装は決まっていて、冬は、下着にユニクロのワイヤレスブラ、ヒートテックの8分袖インナーとレギンスにソックス(左膝にサポーター)。上にベルメゾンのボーダーカットソー、ユニクロのフーディー(っていうんですか。フード付きパーカー)とジーパン。出かけるときに、その上にジャンパー(でいいの?ブルゾン?)を羽織って、キャップをかぶります。このフルセットは、最近、ちょっと暑いです。
で、です。金曜のポッドキャスト「That’s Dance」でも少し話しましたが、その際、ソックスを立ったまま履くんですが、体が硬くて上半身をかがめると腰が痛い。毎回、「いた」って思う。硬い体と向き合う。いわば、老いと向き合う。さらに何度か足を地面に着く。バランスが悪いので。「ああーもう」って思う。
このとき、わたしは、なぜか、毎回、自分のブログやオバフォーのことを思っているのです。この「ソックスをはくとき」に感じていることの何か、このときに漂う気配、大げさにいうなら、世界と自分との関係。まだ暗い早朝。一人、腰をかがめてソックスを履く、という行為のなかに、いったい何を見出しているのか。何を抽出して書こうとしているのか。
多分、↓ここで語ったこととつながっているのです。
前半で盛り上がってる「他人の人生は編集されていて自分の人生だけが無編集・長回し・固定カメラ」という話題、本当にそうだと思う。他人の人生(家族も含めて)はすべて退屈や空虚をカットした切り抜き動画…他の話題も面白いと思います。 https://t.co/YBBki1nx5B
— カリーナ(野田敦子) (@t_Carina) December 11, 2021
まだ、はっきり見つかっていないのですが、
そのポッドキャスト「That’s Dance」で語った上記のようなことの対極。編集されない何か、編集されたときに必ず捨て去られる何か。誰かに言葉や映像として渡されることなく、日々、自分の中でだけ生まれ、消え、そしてまた生まれて定着していく何か。その繰り返し。繰り返しが何事かを貯め、削り、変わっていく自分の内面…そういうものを正確に言葉で表現できたとき、何か深い、本質的な共感が生まれるのではないか。そう信じたいのかもしれません。
上記のツイート、リプライも興味深いのでよかったら読んでみてください。
すでにお申込みいただいていますが、今年最後の「在宅デトックス」は、「今年の疲れ、今年のうちに。在宅デトックス大忘年会」。12月25日(土曜)20時~ 詳しくは、ミカスさんの記事の最後をご覧ください。
Jane
夏井いつきさんのドキュメンタリーの記事とタイアップしたような。
もしカリーナさんのドキュメンタリーが作られたりしたらですよ。
1.スーに起こされ 2.スーに話しかけながら玄関を出る 3.近所の人に挨拶したり 4.お友達と合流したり 5.最後にストレッチ という具合で、その一連の映像だけ見たら、朝早くからエクササイズしがてら周りの人と犬と交流、充実した一日の始まりを迎えるカリーナさん(しかも毎朝)、というイメージ。
でも人の、他人から見て「映える」映像の合間合間には、「映えない」からって切り捨てられる、ひとりでやる日常の所作がいっぱいですよね。そういうシーンに心の底から共感できる境地に、この歳になると辿り着きますよねえ。だってそういうシーンがどんどん増えてくるんだもん!
人はなぜ、そういう部分を語りたがらないんだろう。と、先日ズームお話し会に出て思いました。「こういう時だから楽しい話を」なんて言われても、こういう時だから楽しい事なんて、架空の世界にしかないんだけど。他の参加者の大半が、お互いフェイスブックで常日頃の動向を把握している様子。
他人がもし面白い体験をしていたらそれで自分も笑いたい、あわよくば自分の生活にもそれを取り入れたい、というのも分かりますが。「私はこれに打ち込んでいて」と情報をもらって、「わあー楽しそう、いいですねえ!」なんて言いつつも、自分が同じことをやってもそんなに楽しめないなと内心は冷めていて。
でも私は、カリーナさんのソックスを履く時の話、これから何度も思い出して噛みしめるでしょう。「退屈や空虚」を感じているひとりの時に。場所や時間は違っても、今日もカリーナさんが老いと向き合いながら靴下を履こうとしている、と思うと、なんだか励まされます。
絹ごし豆腐
>「他人の人生は編集されていて自分の人生だけが無編集・長回し・固定カメラ」
つい最近、湊かなえさんの「ポイズン・ドーター ホーリー・マザー」、そして「白ゆき姫殺人事件」を読んだところで、同じ人間を違う人間が描写すると、捉え方はこうも違うのか、ということを改めて実感したところです。
最初に実感したのは、父の葬式後に集まった親族・姻族・知人などが思い思いに父について語ってくださったときのことで、「あの、女にだらしなく自分勝手な父が、家の外から見るとこんな風に見えていたのか」と思ったことでした。
そして兄妹3人の父の捉え方も、当然妻としての母の捉え方も違っていたことでした。
人によって編集箇所が違うので、こういうもの、なのでしょうね。