やっかみかもしれませんが…番外編「わたしたちは移動している」 3/3
第二回はこちら→★
◆◆from はらぷ◆◆
後半(Podcast That’s Dance! Episode55のラスト15分あたりを指す)の、自意識の部分、凡庸なことを言って悦に入っているのを見ると恥ずかしい、という話題のところ、めちゃくちゃ共感しつつ、耳が痛かった。
これを聞いていたら、こないだの文章は違うものになったかな、とか考えてしまった。予言?!
いや、凡庸なものを書きたくないとか思って、それこそ自意識にからめとられて書けなかったかもな…。
本でも、テーマありきで書いてるなってものとか、落とし所が透けて見えるような文章は興ざめするし、演劇でも映画でも、たとえば戦争や平和を描くときだけ、どストレートになってしまってるものを見ると、ああ、恥ずかしい!陶酔してるのか?ってわたしも全く同じことを感じます。これは共感性羞恥?
「いやだ!」っていうどストレートな感情に、自分だけの視点や言葉をあたえ、芸に押し上げることの難しさよ。。。
やっぱね、特に日本では、平和を語る芸人や芸術家や作家は、往々にして世間的に価値を下げるんですよね、それは、陳腐で、凡庸で、つまんなくて、気恥ずかしいから。だからみんな触れない。それは、戦後の反戦教育とかで取り上げられてきた作品とかの弊害でもあるんかな、日本語という特質も関係するんかな。
世の中陳腐であふれているけど、見過ごせる、なんなら肯定すらできる陳腐と、がまんできない陳腐がある感じもする。
陳腐と普遍的の境界線は?自分の感覚は、何をもってそのふたつを振り分けているのか。
平和とか戦争とかに、自分だけが書けることってそもそもあるんかな。
というか、そこに凡庸さを見出さないということが可能なのか、という問い。
ちょっとだけ、凡庸を恐れないことも必要なような気もする。
あと、わたしほんとうに、四六時中頭から離れないわりに、こわがりでテレビのニュースもようよう見られないし、だれより現実逃避していて、ふとんかぶって朝になったらぜんぶ終わってないかと思ってばっかりいるのに、その罪悪感の裏返しなのか、文章を書くときだけ勇ましいと言うか、「正しく」なりがち。
カリーナさんのいってくれた類型化や、「個人的な感覚に妥協のない言葉」との乖離がそこに関係しているような気がします。
つまみさんの、「歴史的建造物を見に行ったのに、その道中の路地のしもたやが気になってそっちの写真ばかり撮った」あたりにヒントがある気がする。
地べたの、じぶんだけの言葉。
とか、ここ数日ほんとうにいろんなことを考えています。
ああいう文章を、自分だけのブログとかに書かないで、オバフォーにあげちゃう勇み足うっかり八兵衛野郎というのは、本当そのとおりだよ…!
カリーナさんの作ってくれたov40という場の度量の広さ、こうしたやりとりができるおふたりとの人間関係、はた迷惑で多分に保身まみれな自問自答に、みずから滝壺につっこんでつきあってくれる強靭さ、すべてがありがたいです。
わたし、そうとういい人生じゃないかこれ。
やりとりは以上である。
戦争の情勢、そしてそれに関する人々の捉え方も日々刻々と変化しているし、何より、人間はひとところになんていない。同じ家、同じ職場を基盤にしていようが、そこにいる時間が動いている以上、完全にとどまっているなんてことはない。
このやりとりを記事にしていい?とふたりに聞いたとき、はからずもはらぷは「いいよ。書いたときと気持ちは移動してるけどね」と返信してきた。カリーナさんも「私も移動している」と。
そう。わたしたちは移動しているのだ。
話したこと、書いたことは、あくまでもその時点での自分でしかない。極端な話、推敲したときはもう書いたときの場所に自分はいない。それを踏まえて、なにか書くことに意味があるとしたら、移動していることを意識し続けることなんじゃないか。対象とともに自分も移動していることを書くことでしか、書く対象を誠実に語ること(不完全であるのは承知の上で)はできないんじゃないか、などと思った。
ゆるぎない結論なんてない。だって移動してるから。
三日間、お読みくださってありがとうございました。
by月亭つまみ
ちまたま
つまみ様
諸行無常ってこういうことかと心から思うことが増えました。
若い頃は変わらないことが良い感じていたけれど・・・。
読みが浅かったらごめんなさい。
つまみ Post author
ちまたまさま
コメント、ありがとうございます。
読みが浅いなんて、とんでもない。
自分がなにかを考えるとき、よく浮かぶのが、波打ち際でうろうろしてるだけなのに、あたかも大海原を思っている気になっているこっけいな自分、です。
でも、たとえ波打ち際でも、海の始まりにいるわけだから、などと言い聞かせたりして、結局、救われたいのかなあ、私は。