◆◇やっかみかもしれませんが…◆◇ 第45回 ただのひとりもいない
思えば、私は担任に恵まれなかった。
小学校4年から6年までの担任だったワタリ先生は、一見、常識が背広(スーツではない)を着ているような男の先生だったが、実体は背広を着た非常識だった。
気分で時間割りを変えることはしょっちゅうで、乗ると、同じ科目を3時間ぶっ続けでやることなどざらだった。かと思うと、自分語りが突然始まったりした。その多くは自慢で、自分の教え子がいかに優秀ぞろいかを滔々と語った。どうやらワタリ先生の中では「教え子が東大に入る」がステイタスらしく、彼がその話のゾーンに入ったが最後、こっちは、屁の突っ張りにもならない話を延々と聞かされるしかなかった。
クラスには、イトウヒロミちゃんという優秀な子がいたが、彼女がのちに、まさに東大に行ったと人づてに聞いたとき、まず浮かんだのはワタリ先生のしてやったり顔で、ヒロミちゃんには悪いが、なんで入るかな東大、ぐらいなことを思ったものだった。
しかし、ワタリ先生の最大の悪行は、時間割り無視でも教え子東大自慢でもなかった。
自分の研究授業の前になると、我々にその授業の段取りを説明し、何をどう理解してほしいかを事前に告知(?)した。それだけでも相当ブラックだが、授業で自分が出す問いに対しての正しい回答例と、それを発表する児童までを、前もって指定するという、闇夜のカラスもびっくりなキングオブブラックっぷりだった。
ワタリ先生に対する親(今は「保護者」か)の評判は決して悪くなかった気がする。誰もワタリ先生の悪行を親に話さなかったのだろうか。当時はよくある話だったのか(んなバカな)。自分も母親とワタリ先生の話をした記憶はあまりない。なんだかもう記憶もブラックホールだ。
中学生になり、次こそ我によき担任を、と願ったが叶えられず、事態はむしろ悪化した。
担任の技術科教師、ハセベ先生は偏屈極まりなかった。見た目は、私が小学生の頃に世間を震撼させた、女性ばかり8人を殺した連続殺人事件の犯人O久保清に似ていた。常に不満げで、生徒に文句を言いたげで、実際にも言った。
曰く、挨拶に気持ちがこもっていない、自分がいないときに机に勝手にプリントなどを置くな、呼ばれたらこっちを見て返事しろ、自分は大人なのだから給食のおかずは多めによそえ…など、
最後のは「おいしい給食」の甘利田先生にインスパイアされた作りばなしではない。実際に言ったのだ(しかも甘利田先生はそんなことは言わない)。とにもかくにも、市原隼人ならまだしも(まだ引き合いに出すか)、連続殺人犯人似に言われても嫌悪感しかないというものだ(差別!)。
ある日、ハセベ(もはや呼び捨て)は、クラス全員と交換ノートを始めると一方的に宣言した。毎日、その日の感想を書いて提出しろと。反対は許されなかった。
みんながそのノートに何を書いたかは知らないが、スタート当初は意外と平穏だった。提出すると、ハセベから毎回、あたりさわりのないコメントが書かれて戻ってきた。でも、そうとなれば、クラスの中には、建前のやりとりがもどかしくなり、「ハセベはどこまでOKなのか」を探り出したくなる生徒が出てくるものだ。男子はフジモト君、女子はたぶん私、がそれだった。
私は、ハセベに対する不満を書き始めた。クラス委員をやっているからという青い正義感もあったのかもしれないが、要するに、ハセベが嫌いだから文句を言いたかったのだ。
「自分がいないときに自分の机に提出物を置くなということですが、提出期限の日の場合、どのようにすればいいのでしょう。学校中、先生を探し回れということでしょうか」とか、「このノートになんの意味があるかわかりません」「時間がもったいない」というようなことを書いた。
フジモト君はもっとストレートで、「先生がプリントを配るときに指に唾をつけるので、配られたプリントの端が濡れていて気持ち悪いです」とか、「先生がよく言う『くらつけっつぉ!』は、殴るぞ、という意味ですか」などと書いたらしい。
私はハセベに呼ばれ、「ちょっと勉強ができると思っていい気になるな」と言われた。勉強ができるとも思っていなかったし、いい気にもなっていないつもりだった私は、納得できないという顔をしたのだと思う。ハセベは、「人間は素直なのが一番なんだ。少しは反省しろ」と脅すように言った。そのときの目つきは今でも忘れられない。
フジモト君は本当に「くらつけられた」らしい、と噂になったが、本人は何も言わなかった。噂以降、ハセベに対して従順になった感じも特になかった。
でもさすがに、クラス全体のハセベに対する不満は高まり、他の生徒の交換ノートの記載内容にも徐々にそれが反映されてきたらしく、ある日突然、交換ノートは中止になった。そしてその直後から、ハセベはちょくちょく体調不良を理由に学校を休むようになり、ある日入院したと聞いた。それ以降、私は今日まで一度もハセベに会っていない。入院したハセベのお見舞いに行ったのは、クラスではフジモト君とその友達だけだった。
2年生になって、フジモト君とはクラスが別れた(1学年9クラスもあった)が、ある日、廊下で彼から「ハセベが月亭さんのことを言ってたよ」と声をかけられた。私が「えっ!?フジモト君、まだあの先生のお見舞いに行ってるの?」と驚くと、彼は「この間、家に行ったんだ。ふつうの家で、ジュースが出た」と言った。私が「飲んだの?」と聞くと、彼は「喉が渇いてたから飲んだよ」と答えて立ち去った。私は、フジモト君の気持ちを推測しかね過ぎて、ハセベが私のことをなんと言っていたのか聞きそびれた。すぐに、聞くべきことは「飲んだの?」じゃないだろう、と気づいたが、結局、その後、フジモト君とハセベの話をすることはなかった。
中1のときに同じクラスで、一緒にハセベ体験をした友人ヨウコの結婚式に出席したのは、中学を卒業してから10年ちょっと経った頃のことだった。自分と同じ新婦側の席に、ヨウコの中学2,3年の担任のカネダ先生がいるのを見つけ、私は驚いた。
カネダ先生には私も3年間国語を習っていたし、わりと話をしたつもりだったが、先生は私のことはあまり覚えていなかった。そんなどうでもいいことより、ヨウコの結婚式に招待されたことがうれしくてたまらないという様子だった。
そのとき私は、「担任にめぐまれなかった過去」を克服というか帳消しにできるような、自分の結婚式に呼びたい、呼んだら喜んで来てくれる、先生に出会えたヨウコがうらやましいと心から思った。私なんて、小学校の前半と高校も含めたすべての担任を思い起こしても、自分の結婚式に来てほしいと思う人なんて、ひとりも、ただのひとりもいない。
これは立派なやっかみ案件だと思う。
by月亭つまみ
kokomo
ツマミさん、私も担任には恵まれませんでした。「ザツダン」で転校が多かったとおっしゃっていましたが、私もツマミさんと同様、私も中学の途中まで父の仕事の都合で転校を繰り返し、小学校は4箇所経験しました。そしてただ一人たりとも温かい気持ちで思い出すことができる担任がいないのは、ツマミさんみたいにやっかみ案件。
中でも未だに思い出して暗澹たる気持ちになるのが、小学3年生の時の担任。私のことが気に入らなかったようで、クラスの面前で罵倒はしょっちゅう。極めつけは、親が呼び出され「あなたの娘はなんでこんなに雑なんだ。テストの点が良くてもいい成績なんてつけない。あなたの娘が大嫌い」と言われたそうです。今から思うと私もかわいげのない子供でした。それにしてもなかなかの仕打ち。これらの言葉を親を通して聞いた昔の私を抱きしめてあげたい。
今でも何かに失敗したり挫折したりすると、あの頃の記憶がよみがえり、教師は暗い記憶を植え付けるために意図的にしたことなのか、自分の生活で何かうまくいかないことがあってそれをぶつけただけなのか、あの時の教師が正しくて本当に私はダメ人間なのではか、と答えの出ない問いが頭の中をびゅんびゅん飛び回ります。
この前美容室でたまたま読んだ「女性自身」の絲山秋子さんが書評欄で、田坂広志さんの「運気を磨く」という本に倣って、嫌いだった教師に対して心の中で「卒業式」を行って心が軽くなった、というようなことを書かれていました。ツマミさんはいつか嫌な担任に卒業式できそうですか?私はまだまだできそうにないなぁ。
ちなみに、小4になって例の教師から解放されたものの、今度はセクハラ教師。私はお好みじゃなかったようで被害にあいませんでしたが、放課後にお気に入りの女子生徒を膝の上にのせて腿やらを触っていたのを何度も見た記憶があります。本当にろくでもない。
つまみ Post author
Kokomoさん、こんにちは。
そして絶句…。
あんまりな担任の二連発。
ろくでもないことに関しては甲乙つけがたし!!
私の担任なんて、まだあまちゃんだったとすら思えます。
多感な時期に、ダメな人間のせいで、自分がダメな人間じゃないかと思わされる、その罪深さたるや!です。
おぞましい。
エロ教師も本当におぞましい。
教員採用試験のときに、教師としての資質を見極める方法はないのだろうか、と昔から考えていました。
社会人経験、というのが必要じゃないか、と思ったり。
学校を卒業したとたん、先生と呼ばれ、自分より弱い存在にある意味、君臨するのは人をダメにするのだと、教職に就きたいならば、何年間か会社員、できれば営業担当、できれば厳しい条件(温暖な土地でストーブを売るとか)で働くことを条件にしろ!と本気で言ってました、知人に。
私は、担任のことは忘れてはいないものの、トラウマはありません。
今の仕事でも職員室は苦手ですが、それはまた別です…たぶん、きっと。