わからんけど、わかる。
作家・町田康の講演会のようなものが新書になっていたので読んでみた。もともとパンクロックのボーカルだった町田町蔵がなぜ作家・町田康になったのかがとてもよくわかる内容だった。
その中で、町田康が詩について語っている章がある。「詩って何かと言われると、『わからんけど、わかる』だと思うんです」とあった。彼曰く、世の中のものは「わからんから、わからん」ものと、「わからんけど、わかる」もの、そして、「わかるけど、わからん」ものと、「わかるから、わかる」ものという4つに分類できるのではないかと。ふむふむ、なるほど。おもしろい。
たとえば、「夕陽はキラキラしてるから、大好き」というのは「わかるから、わかる」だ。迷いようがない。けれど、世の中には「夕陽はキラキラしてきれい。だから、寂しくなる」と言われると、なんかよくわからないんだけれど、わかる気がする。つまり「わからんけど、わかる」ものになるんだと。そして、それが詩なるものになるのではないかと、町田康は面白おかしく解説してくれるのだ。なんや、ようわからんけど、なんか納得してしまう。自分にもなんかそんな気分も時あるかもなあ、と思わせてくれる。それが気持ちの中に波風を立たせてくれる。
ほな、わからんかったらええのか、といわれると、「わからんから、わからん」となって開き直りすぎて誰の気持ちも動かなくなる。
このあたりを読むと、まあ、何かを創る上で、当たり前のことを言っているんだけども改めて納得できることが多くてワクワクしてしまったのだった。そして、創るという行為は、改めて自分自身のためでもありながら、他者のためなんだなあと思う。けれど、「わからんけど、わかる」という路線は、ある意味、何割かの「わからんけど、わかる」が「わからんし、わからん」となってしまう読者というか受け手側を産んでしまうわけで、諸刃の剣であることは間違いない。
映画でもカンヌ映画祭のグランプリを獲るような難しい映画は苦手、という映画ファンはいる。これなんかは、審査員や映画ファンの感性には「わからんけど、わかる」と届いたけれど、普段あまり映画をみないような層には「わからんし、わからん」だったということになる。これを匙加減して、「もうちょいわかるようにしよう」ということをあんまり考えると、「なんか、あの尖った作風が好きだったのに、最近、読者や観客に迎合しているんじゃない」なんて言われ、さらに「もっと売れるために、もっとわかりやすくしてやれ」と画策してしまうと「魂を売った」「資本主義の手先め」と言われる。いや、言われないか。言われるかもしれない。
まあ、そこまで器用ではない、バカ売れしないギリギリで、「俺はこれが好きなんだけどなあ」と読者は観客に作品を差し出すような、そんな作家が僕は好き、というお話しでした。
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植松眞人事務所
植松眞人(うえまつまさと): 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。現在はコピーライターと大阪ビジュアルアーツ専門学校の講師をしています。東京と大阪を行ったり来たりする生活を楽しんでいます。