娘が今後抱えるであろう不安と負担と迷惑と、老いていく私の自由と自己決定と尊厳の落としどころ。
こんにちは、カリーナです。
昨日は、友人夫妻が遊びに来てくれました。二十数年前まで住んでいたマンションの友だちで、久しぶりに連絡をもらって夫が亡くなったことを言うと、驚いてお参りに来てくれた、という感じです。たくさん話して、すごく楽しかった。
わたしより10歳年下の友だちと出会ったのは、彼女が20代前半のころ。今も相変わらず若々しくてきれいだったけど、彼女も50代になり、これから先のことをいろいろと考えていました。あの若くて、おしゃれでキラキラしていたママが、もう、こんなことを考える年になったなんて…時の経つのは早いものです。
いわゆる終活的なことについて彼女が考えるきっかけになったのは、お父さんが亡くなってからだそうです。工務店を営んでいたお父さんの急死後、借金があって相続放棄をしたこと、自営業の後始末が大変だったこと、お母さんが不安定になり、その対応も大変だったことなどを話してくれました。
いま、一人暮らしのお母さんは、金銭管理ができず、それもまた心配の種。年金も国民年金のみで余裕がありません。
友だちの不安や大変さは痛いほどわかるし、お母さんの不安もわかります。娘から見た老母の心もとなさ、わがままさ、がんこさ、愚痴っぽさ、計画性のなさが目に浮かぶし、今後のことを考えると重たくて憂鬱になる感じもわかる。一方、老母から見る娘という存在の「頼りにはなるが、自分の自由を奪う感じ」「心配して言ってくれていることがわかるだけに、気を遣って本音を言えない感じ」もわかる。自分が娘に対して、段々そんな感じになってきているからです。
すでに両親を亡くしているわたしは、もう「娘」ではなくなって「老母」へ刻々と近づいています。
一人娘に心配かけないようにするためには、かなり早めに「すっぱりと介護施設に入る」なんてことをしなければならないでしょう。自らそう決断してくれる親ほど、子どもにとってありがたい存在はないんじゃないかな。金銭的負担も一切かけずに自ら施設に入る。しかし、それは、いつなのか。いつがベストなのか。いつなら、自分が「今だ。施設に入ろう」と思えるのか。
「今だ」と思うには、それなりの「見学」や「調査」が必要でしょうが、それをいつから始めるのか。
うーん。難しすぎる。「なんとか、まだやっていける」と思い続けて、「あー。うちの親、心配でたまらん。自分から施設に入ると言ってくれないかなあ」とぼやかれる未来しか見えん。
昨日来てくれた友だちのお母さんは、78歳だそうです。年の離れたわたしの姉は、昨日、75歳になりました。
娘(子)が見る70代と、妹(兄弟姉妹)が見る70代もまた、大きく違うのです。「年齢」の意味するものや、その重みは、両者の関係によっても変わってくる。親子がもっとも「老い」を顕著に意識する関係といえるでしょう。
ということは、娘(子)としか接しないでいると、自分の老人化は一層進むのではないか。「お荷物化」「用済み化」も進むのではないか。いかん、いかん。用心せねばいかん。
わかりきったことかもしれませんが、年をとるって難しいですねえ。自分が「若かったころ」「子どもだったころ」「娘だったころ」に年をとっていく親をどう見ていたかを知っているだけに、余計に難しい。自分がどんどん「負担でしかなかった老いた親」に近づいていくんだから。
どっかでちゃんと、この複雑な気持ちを娘に伝えとかないといけないな。娘が今後抱えるであろう不安と負担と迷惑と、わたしの自由と自己決定と尊厳の落としどころ。
昨日もフルーツサンドを作りました。でも、友だち夫妻がびっくりするほどたくさん手土産を持って来てくれていて、有名パティシエの絶品シュークリームを一緒に食べることになったので、すっかりかすんでしまいました。
前回とはいちごの置き方を変え、丸のまま置いて、対角線で切りました。パンは8枚切り。
オバフォーは今週もコツコツと更新します。時間のあるときに遊びに来てください。待ってまーす。