年をとったら、どこにいても「ノマド」。他人といる「荒涼」より、自ら選ぶ「荒涼」がいい。
こんにちは、カリーナです。
ここのところ、夜は配信サイトで映画を見ています。
「WANDA」(1970年・バーバラ・ローデン脚本・監督・主演)、「あなたの顔の前に」(1920年・ホンサンス監督)「3つの鍵」(2022年・ナンニ・モレッティ脚本・監督)、「あんのこと」(2024年・入江悠脚本・監督)、「ノマドランド」(2021年・クレオ・ジャオ脚本、編集、監督)、「ザ・ライダー」(2018年・クレオ・ジャオ監督)など。
幸い、どれもおもしろくてはずれなし。
「ノマドランド」がとてもよかったので、同監督の「ザ・ライダー」も立て続けに見る勢い。
2021年、アカデミー賞計6部門を受賞した「ノマドランド」は、リーマンショック以降の不況で家を失い、車上生活を余儀なくされた高齢白人ミドルクラスの人たちを描くもので(白人以外の車上生活は襲撃される危険が高く、このライフスタイルを選べないのだそう)、「ノマド(遊牧民)」と言えば詩的に響くけれど、短期の季節労働(冬季のアマゾンや夏季のキャンプ場など)を渡り歩きながら(たとえば、狭い車上でポータブルトイレに排泄し、処理しながら)暮らす人々が登場します。(プロの俳優は主演のフランシス・マクドーマンドともう一人のみ)。
その寄る辺なさを想像すると胸の真ん中がギューンと痛むのですが、しかし、主演のフランシス・マクドーマンドが少し心を通わせた男友達の家(彼が子どもや孫と住む家)を訪ねたとき。(「ここで暮らさないか、あなたも」と言われる家)
彼の家族とともになごやかにごはんを食べ、彼の孫を腕の中で寝かせた、その夜、彼女は、家の外に止める自分の車で寝て、何も言わずに去っていきます。そして、強風に短髪をなびかせながら荒波を見つめて「そう、そう、ここだ」というようにかすかに微笑む。
たとえ、「ここで一緒に住もう」と言われても、「自分のものではない家の食卓や椅子」は、冷たく無縁な、大自然以上に自分を無力に感じさせる「自然」なのです。
自分が手を下せない、安息が約束されたかのように見えるだけに一層冷酷な「自然」。
それよりも、何万年もの時間をかけて作られた正真正銘の厳しい大自然のなかに、つかの間、身を浸しているほうが自分を芥子粒のように小さな存在だと実感でき、死に向かって粛々と歩んでいける安心感がある。
まったくスケールが違うけれど、一昨年、北海道を一人旅し、早朝の釧路高原を蝦夷鹿と出会いながら歩いていると足元に塘路湖があることに気づき、一気に視野が広がったときの強烈な歓喜を思い出しました。
他人とともにいる「荒涼」より、自ら進んで選びとる「荒涼」がいい。
大阪の小さなマンションに暮らすわたしですが、その感覚はわかります。
「ノマドランド」は、わたしぐらいの年齢(60代)が見ると、むしろ勇気づけられる映画だと思いました。
年寄りは、どこにいてもノマドよ。
オバフォーは今週もコツコツと更新します。時間のあるときに遊びに来てください。待ってまーす。