(16)父を葬る(上)
(注:父はまだ死んでません)
母はつくづく、異常だと思う。常に上か下かで物事を判断し、その道具として機能しない夫や娘を罵っていたのだから。
しかし、そんな異常な人と結婚していた父は、一体どんな人物なのだろうか。
父は満洲国の首都大連で生まれ、中国人のお手伝いさんのいる家で安穏と育った。そのことは彼の人格形成に大きな影響を与えていると推察する。私の祖父は満鉄子会社の工場の技師であったため、敗戦後、その工場を接収した中国共産党からむしろ重宝され、ひどい扱いは受けなかったそうだ。
母は父の性格を、家に遊びに来た英語話者に説明するとき、「Continental」(大陸風=のんびり)と表現したものだが、占領や傀儡国家のニュアンスまでは表現できていないように思う。引き揚げはそれなりに大変だったろうし、奨学金で大学に行くなどの苦労はあったものの、父は当時としては大きな会社に就職し、作業着を着て試験管を振るような化学関係の仕事に就いた。そして35歳のとき、見合い結婚で5歳年下の母と結婚した。
父と母の争いの主たる原因の一つは私だが、もう一つは、姑の介護の恐れだった(舅はすでに他界)。私の父方の祖母(つまり母の姑)は、女性が働くことを快く思わず、長男の嫁が同居して姑の面倒を見るのが当たり前だと思っていたため、長男である父を介して母に同居を迫る。
しかし母は働きたい、姑と同居なんかしたくない。それで母は父に抗議する。口喧嘩では母の圧勝のため、父はほとんどの場合は無視し、無視できないときは物を投げるか母を殴るかし(私の知る限り2回)、母はさらに罵って応戦するような喧嘩をしていたわけだが、父は結局どうしたかったんだろう。
離婚するとか、介護施設を探すとか(今みたいな制度はなかったが)、自分の弟に相談して分担するとか、何らか次のステップがあったはずだ。しかし、何もしなかった。何の検討も行われていなかった。
今ならわかる。父は何も考えていなかったのだ。何も。何一つ。
女性が働くことや、親の介護について、何の方針も無かった。
母親というものは、大事なものだと決まっている。妻というものは、そこにいることが当然。娘というものは、自分のできる範囲で、かわいがる。以上。
とにかく目の前の面倒なことが過ぎ去ればいい。毎日が平穏に過ぎればいい。父は、自身の快適さには強いこだわりがあり、シャツの肌触りはこれでなくちゃダメだとか、食事のときはこの調味料がないとダメだとか、清潔さとか、異様なこだわりを見せる。当時の男性としては珍しく、料理も掃除もするが、進んでいたからではなく、単に自身の快適さを自分のやりたいように求めていただけ。
だから、母が私に無理難題を押し付けて嫌味を言っていても、止めたりはしない。全く。
そして、大酒を飲む。
そう、酒ですべてをごまかしていたのよーー。
目の前の平穏さが乱されたら酒を飲み、そのまま泥酔し、寝て忘れる。うわー、普通にヤバいじゃん。
「鈍感力」とでも言うのだろうか。家で虐待が起きていても、酒の力でスルーできる。自分に対して暴言を吐かれても、酒でごまかす。人間の、平穏を保とうとする能力はおそろしい。その鈍感力、何も考えない力が、また母を苛立たせる。
私が異常な母の下で生き延びてこれたのは、幸か不幸か、父の鈍感力が遺伝したのだと思う(この点においては、母の見立ては間違っていない)。母はそれが気に入らず、やっきになって私に選民思想を植え付けようとしていた。とすると、私は母による父の改造品ということになる。…悲しい。「私」はどこにもいない。
父の「鈍感力」は、母が間質性肺炎で弱ってからは、母にとっては良い方に発揮されたようだ。目の前に弱っている人がいたら深く考えずに手伝う、という単純さ。病院に付き添うなどしており、母は「とても感謝している」と私宛ての手紙にも、日記にも書いていた。あれだけ罵られても酒の力で忘れてしまい、手助けできるのは、ある意味すごい(褒めてない)。母が死ぬ間際に、父と同じ病院に入院したいなどと言うほどになったのは、みずからが憎んだ鈍感さのおかげというわけで、なかなか興味深い。(なお、姑は介護の必要なく死んだので、その諍いは自然消滅した)
ちなみに、信田さよ子の本でも、菅野久美子の『母を捨てる』でも(母親から首を絞められるような虐待を恒常的に受けていた!)、父親の不在の罪深さが書かれている。菅野久美子の父親は、村上春樹の信者でその世界に逃避していたそうだ。酒よりマシなのか、酒ほど分かりやすくないぶん罪深いのか。
当時の多くの男性は、父ほど鈍感ではないにしても、正社員で、あてがわれた妻子がいて、深く考えずに生きて、何か亀裂が起きても目をふさぎ、なかったことにして、依存する酒なり村上春樹なりでごまかしてきた人が多いのだろう。それでも「社会の一員」という顔をしていられた。
一方。
母は20代で複数の男性と付き合うも結婚には至らず、見合いを繰り返していた(ということが日記で分かった。あんな母でも20代のときは「市場」で価値があったことが感慨深いとともに、その「市場」が生々しくて怖い)。父のことは、70点(と日記に書いてある)の採点だが仕方がない、マイナス要素が少ない、もう30歳だ、という消去法で決めた相手だった。
仕事がしたい、しかし女性ができる、さらには自身のプライドにかなうような知的な仕事はない。祖母は母に次々と見合いを進める。母も、見合いで良い相手を見つけることで一発逆転が狙えるかのように勘違いする。もはや消去法の相手に掛けるしかない女性の人生。
その結果がこれですよ。
あー、マジで、家父長制と男女差別にうんざりする!!
滅びてしまえ!!!!!
そして、私にとっての問題は、そんな家父長制でゲタを履かせてもらったうえに酒で自分をごまかしているような父のことを、無意識で「ひょっとしたら自分を愛してくれる「親」というのはこの人かもしれない」と勘違いしがちなことなのである。