泣ける男の汚れ具合。
泣けるのである。映画なんて、予告編だけで泣ける。なんなら、予告編の方が泣けたりする。公園のそばを通りかかって、楽しそうに遊んでいる親子なんて、笑い声を聞くだけで泣ける。最近では、俺はどういうときに泣くんだろう、ということを考えているだけで、子供時代のことを思い出しては泣き、かつての出会いや別れ、子育てのあれやこれやを思い出しては泣ける。
歳をとってから、なんだか涙もろくなった自分の話を「人生を重ねて共感力が高まったんですかね?」と、映画学校時代の師匠に話すと、「いや違う。それはお前、単なる感情失禁や」と大笑いされたのだった。
なるほど、それはそうかもしれない。シモのコントロールだってままならないのだ。感情のコントロールだって、ままならなくなるはずだ。
ということで、泣けるのは感情失禁!と思っていると、必要以上に自分が弱くなったわけじゃない、という気がして、それはそれでなかなか楽しくなってくる。ところが、あるネットの記事で、ある人が「よく泣ける人って、いい人に見えるけど、だいたい汚れたところの多いやつだよ。罪滅ぼしに泣いてるんだ」と発言しているのを読んだ。うん?それは極端な例でないかと思ったのだが、ここしばらくの間に、よく泣く人に遭遇することがあり、これも強ち間違いじゃない気がしてきた。
二人ほどそういう人に会ったのだが、たまたま女性だった。そして、たまたま20代の半ばから30代の真ん中あたり。この二人がよく泣く。真っ正面に対峙する役割じゃなかったので、事なきを得たのだが、直接対話している人たちが可哀想に思えるくらいに、よく泣く。しかも、ちょうどいいところで泣く。なるほど、こうなると某氏が言うように、なんとなく汚れた涙に見えてくるから不思議なもんだ。
で、それからしばらくの時間がたって、だけども、とまた思ってしまう。都合のいいところで都合よく泣ける汚れた涙ではあるものの、それはそれで感情失禁に近いものなのではないか、と。いや、違う。そもそも、自分が映画を見て泣いたり、誰かが泣いているのを見て、なんとなく純粋であったり素直であったり可哀想であったりという感情を想起するのがそもそも間違っていたんだな。泣くことが、どうしようもなく感情を揺さぶられてるというだけではなく、まるでスポーツのように泣いて、試合が一つ終わった後のように気持ちよくなっていることを僕らは知っていたはずなのに。
まあ、誰かに泣いているところを見られたいわけではないが、泣いて気持ちよくなりたいというくらいの汚れ具合は僕にもあって、今日もまた、なにか泣かしてくれるようなスイッチはないかと探しているようなフシはある。
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植松事務所
植松雅登(うえまつまさと): 1962年生。映画学校を卒業して映像業界で仕事をした後、なぜか広告業界へ。制作会社を経営しながら映画学校の講師などを経験。現在はフリーランスのコピーライター、クリエイティブディレクターとして、コピーライティング、ネーミングやブランディングの開発、映像制作などを行っています。