感性を引っかけておくフックが。
映画を見ているとき、本を読んでいるとき、誰かの話を聞いているとき。何気なく引っかかる言葉や表情、行動がある。それを自分の中にあるフックに引っかけておいて、後で手に取って眺めてみることがある。
映画の中で主人公が話していた詩を読みたくなって、映画館からそのまま書店に行き、考えてもみなかった詩人と出会えたこともあった。小説の中の主人公の心の移ろいのようなものに自分を重ね合わせて、自分自身の映像作品の「核」のようなところに置いたこともあった。
これは、仕事でも同様で、たとえば取材メモを見ながら記事をまとめているとき、小さな走り書きの中に、その人の生き様が凝縮されたような一瞬が記録されている気がすることがある。それを自分の中のフックに引っかけておき、記事を書き進める途中で、そっとそのエッセンスを忍ばせることで、文章に深みを出す──そんなことがある。
ところが最近、困ったことになってきた。この“感性を引っかけておくフック”のようなものが、見当たらなくなってしまうことが増えてきたのだ。映画や本、誰かとの会話の中で、「あ、おもしろいな」と思うことはたくさんある。それが減っているという実感はない。けれど、それを無意識に、ひょいと引っかけておくという作業が、いつのまにかできなくなっているような気がする。意識的にメモを残したりもするけれど、以前はそんなことをしなくても覚えていられたのに、という感覚が強くて、なんともやるせない。
これがまったく忘れているなら、まだいい。ちょっとだけ覚えている。これがつらい。「ほら、なんか同じようなシチュエーションで、“面白いなあ”と思ったことがあったよね」という感覚だけが残っている。以前なら、そういうとき、自分の中のフックを見回すと「あ、これこれ」というモノが引っかかっていたのだ。
どう言えばわかってもらえるだろうか。たとえば、新幹線のぞみが停車するような巨大な駅でコインロッカーを使ったときのあの感じ。ちゃんと覚えておこうとしたのに、いざ取り出そうとすると場所がわからない。「たしか、コーヒーショップのそばだった」とあちこち探してみるが、コーヒーショップが無数にある。最終的には、自分がその駅に着いたときの改札からの道筋を思い出しながら歩いて、やっとロッカーにたどり着いたりする。あの感じ。
しかも、感性のフックの場合は、その“道筋”すら思い出せないことが多いので、引っかけたモノが永遠にわからないままになってしまう。これはもう、感性が老いたというか、加齢による感覚の鈍りというか……。だけど、悔しいのは、半年とか1年くらい経って、同じようなシチュエーションに出会ったとき、「あ、これだ!」と思い出すことだ。あんなに悔しいことはない。同時に、あんなに「人間っておもしろいなあ」と思うこともない。そして、さらに悔しくておもしろいのは──1年ぶりに思い出した感性のフックを、次の瞬間にまた忘れていたりすることだ。
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植松事務所
植松雅登(うえまつまさと): 1962年生。映画学校を卒業して映像業界で仕事をした後、なぜか広告業界へ。制作会社を経営しながら映画学校の講師などを経験。現在はフリーランスのコピーライター、クリエイティブディレクターとして、コピーライティング、ネーミングやブランディングの開発、映像制作などを行っています。