抑揚のない「トイレ行ってくるわ」に潜む、懐かしさの核心。
こんにちは、カリーナです。、
ホームセンターのレジに並んだら、目の前には、70代後半かと思われるご夫婦。ふたりとも悠々自適とまではいかないけれど、それなりの暮らしをしている庶民的な雰囲気で、奥さんは頭長がまあるく白くなった明るい茶髪です。
ふたりは買い物がこれでいいかを確認しながらレジに並び、しばらくして奥さんが「ちょっとトイレ行ってくるわ」と言いました。ダンナさんは、うんと軽くうなずきカートの向きをまっすぐに直し、奥さんは列を抜けてすっと入口のほうへ歩いて行きました。
「ちょっとトイレ行ってくるわ」。この奥さんは、この感じのシチュエーションで何度言ったでしょうか。
この声音、この言い方。
ふたりがつきあい始めて、用を足すと告げるのが恥ずかしくなくなり、それからずーーっとこんなふうにさりげなく告げて、スタスタとトイレに行ってきたのでしょう。そして、きっとあまり表情を変えず帰って来るでしょう。迎えるほうの表情も変わらないでしょう。
この単純なひと言に「ふたりの若き日が凝縮されている」と思いました。
わたしもあんなふうに夫に言ってた気がします。なんということのない、あたりまえの、心の動きのない「トイレに行ってくる」だけど、わたしはもう、あんなふうには言わない。言う相手がいない。娘や姉に言うときは、もう少し、抑揚がついています。
人間関係は、記憶の収蔵庫です。出会ってから今日までのあらゆる記憶が詰まっていて、二人や三人や複数の人間の間に「若いまま」の言葉や行動が残っている。
懐かしいとさえ思わない当たり前の「やりとり」に、懐かしさの「核心」が、そして失ってしまうと決して戻らない「人生の瞬間」がひそんでいる。
そう思うと、どの瞬間も、本当に「かけがえがない」。今も、この瞬間も。
10月になりました。今月もオバフォーはコツコツと更新します。時間のあるときに遊びに来てください。待ってまーす。
なおなお
「人間関係は記憶の収蔵庫」
ほんとにそうですね
オットとの収蔵庫にもっともっと入れたかったです