「ささやか」「ひっそり」と母の人生を語る子の傲慢。
こんにちは、カリーナです。
「ほぼ日手帳」の特設ページに知野さんという編集者の方が書いた「70歳、初めての手帳にある夢といつかの未来のこと」という文章が載っていました。糸井重里さんも感動されたようでXで「読み物として最高」と絶賛しています。
読んでみました。
そして、少しゲンナリしてしまいました。
娘さんのお母さんを見つめるまなざしは終始優しいし、
書き続けて気がついたのは、
私の毎日も、家族の毎日も、
亡くなった父や母と過ごした日々も、
ずっとつながっていて、
これからも続いていくんだなっていうこと。
だからいつかくる“エンディング”じゃなくて、
いつかくる“未来”に向けて、
家族が困らないように必要な情報を
手帳に書くようにしたの。
と語るお母さんも素敵です。
でも、このお母さんよりお7歳年下のわたしから見ると「ああ、こうやってわたしたちは『老いゆく母の典型』に収まらせられていくのだな」とも感じて、やるせなくなるのです。糸井さん、もっとお年が上なのに違和感ないのかしら。
娘さんの文章には、おそらくは何の疑いもなくお母さんの人生に対する形容詞として「ささやか」「ひっそり」という言葉が使われています。さだまさしの「無縁坂」から一貫して(自ら進んで)自己犠牲を貫いた(と子が思い込んでいる)母を成長した子が語るときに使われる形容詞!
専業主婦として家族を支え、「介護が終わってほっとしたのも束の間、今度は私の子どもたちの学校や塾の送迎をして」くれているお母さんは、働く娘からはそう見えるのでしょう。
70歳という年齢は、ちょうどわたしと姉の間です。
わたしは、おそらくは姉も、こんなふうに描写されたらいやだな。「ささやか」「ひっそり」と人生を「極小化して無害化」して「日陰でけなげに咲いた一輪の花」みたいに描かないでほしい。
意地悪な文章になってしまいました。しかし、女性の編集者なら、このあたりの表現には敏感であってほしいし、あるべきだと考えます。
「母」が元気なうちは、こんなに優しい「子の典型」として愛しく語れるけれど。このあと、20年、いや30年あるかもしれない。「さよなら」は飽き飽きするほど先かもよ。がんばって、とも。
3連休の最後の日ですね。金木犀が香っています。オバフォーは今週もコツコツと更新します。時間のあるときに遊びに来てください。待ってまーす。

















































































