Posted on 2026年2月23日 by カリーナ
スーと歩きながら、「節度のある追悼」について考える。
こんにちは、カリーナです。
中学・高校のころの友だちが亡くなった話などを聞くと、それがあまり親しい人じゃなくても、この気持ちをどこにもっていったらいいのかわかりません。
聞いた当初のショック。記憶に残る昔の元気な顔。「なんてことだ。神様は、いないのか」というありふれてはいるけど嘘じゃない嘆き。
そこから「自分は健康でありがたい」という方向へもっていくのはイヤだし、「健康に気をつけないと」もイヤだし、「だから会えるうちに会っておかないと」というのも嘘ではないけど、本当かというとビミョーで、きれいごとにも思えるし。
だから、気持ちをどこにも持っていかないようにそのまま抱えたまま、何を考えているのかわからない状態で黙々とスーと歩きます。
ひとつだけわかるのは、「年とともに向こうから飛んでくる弾丸の数は増え続ける」ということ。弾丸とは、病気やケガといった死につながる何かです。まあ、長く生きてきたわけだから当然なんですよね。もっと若くして亡くなった方はたくさんいるんだから。
その弾丸が、たまたま、わたしに当たっていないか、当たっているのに気づいていないか、かすり傷で済んでいるだけ。わたしに当たらず、友人に当たった根拠や理由はどこにもない。
たまたま、当たった。そして先に死んでしまった。
弾丸の数は今後、どんどん増え続ける。
当然、わたしにも当たる。間違いなく当たる。
前進する隊列と飛んでくる弾丸を頭の中に描きながら黙ってスーと歩きます。だから、どうということもなく。
覚悟ともいえない覚悟みたいな何かでお腹に力を入れるようにして。
まあ、それとて覚悟ではないのです。覚悟っぽい気分に過ぎません。
中学校や高校で、みんな一斉に輝いていた、あの十代のほてったような顔、顔、顔。声、声、声。
それぞれに苦しみや悩みを抱えていたにしても、傍目からは健康にしか見えなかった笑い顔。というか、内面の苦しみをあざ笑うように健やかだった体。
その先に、それぞれの未来が待っていたわけだけど、「あの人、成功したねえ」とか「いい人と結婚したねえ」とか「お金持ちになってるよ」とか、そんなの今思えば、「ちょっと先のどうでもいい」ことだったな。
いま、わたしが、ここで流す涙は嘘っぽいけど、あのころの中学や高校に戻って自分を含めた同級生たち(好きだった人も、そうでなかった人も、全部ひっくるめて)を見たら、きっと泣くと思う。
その輝きがいつか失われることを思って。失われることに思いを馳せない若さの傲慢なほどの美しさにほれぼれして。
そうやって過去といまを行ったり来たりして黙って心を揺らすのが、節度のある追悼なのでしょうか。わからないけど、そんなことを思いながらスーとを歩きます。
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