「見えていない人」を批判する心理&ミラノから新連載のご紹介!
先日、電車で立っていたら、目の前に座る50代後半の男性ふたりが「ほんま、見えてへんねん」「なんで見えてへんのやろ」「とにかく見えてへんねん!」「見る気がないんやろ」と上司か同僚か部下か、いずれにしろ、そこにいない人物の「見えてなさ」について、ありとあらゆる角度から指摘し、問題視し、憂い、苦笑し、あきらめ、ため息をついていました。
「見えていない」って誘惑的な言葉ですよね。
「見えていない」ってついつい言いたくなるもんです。
だって「自分には見えている」んだから。
自分には見えていて相手には見えていない「全体像」的な何か!
ちょっとした神様気分になれる俯瞰ビュー!
実のところ、わたしも仕事のなかで「あの人、見えていないよなあ」って感じる人が何人かはいるんですよ。だから「見えていないよねえ」って遠慮なく言える場があったら、いろいろ指摘できると思う!ため息だってついちゃう❤
でもな。最近、ようやくわかってきたんですけど、それって、つまるところ「見ている景色の違い」なんですよね。いや、わかっていたつもりなんですよ。でも、ようやく、ようやく、それが腑に落ちようとしています。「見たいもの」が違えば、「見えるもの」は違う。「立場」が違えば、「眺望」も変わる。人って、自分の置かれている「人間関係」や「生い立ち」や「心の奥底の願望」や「目下の悩み」なんかを語っているようでいて語りませんからね。基本、黙っている。だから、相手にどんな景色が見えているのか本当のところはわからないです。家族だってそうだもんな。
「見えてない」のは、おたがいさま。
「見えてない」って憂うヒマがあったら、想像力を働かせなきゃな。
ま、たまには「見えてない!」と憂いながら指摘しつつ、
「つかのま自分を上に置いて気持ちよくなる」ストレス解消をしてもいいけど、
その誘惑に「自ら飛び込んでいく」のはやめたほうがいいなあと
電車のなかのおじさま二人を見て思いました。
今日から、mity(ミティ)さんの「なにわのおかんのイタリア暮らし ミラノまんま見~や!」がスタートしています。第1回めは、ミラノ奥座敷的スポットの紹介。なんせオサレマダムの本場・ミラノですから、「いや、そんなことじゃなくてこういうこと知りたいの」なんてどんどんコメント欄に書き込んでくださいね♪お待ちしています!
mity
私も「見えてない」って言う言い方で人を評価するの大大大きらいです!
案外「見えてない」人たちが世の中を楽しくする明るくしてくれるんですよね~!
みんながみんな同じ方向で同じもの見ている方が、逆に恐ろしや、、、です。