ぼんやりとした遠景を眺めるって、可能性を信じることではないだろうか。
この記事は毎週月曜日の朝(つまり当日)、9時半ぐらいから書きはじめるんですが、前日の晩ぐらいから考えていて、なんとか「あ。こういう内容を書こうかなー」と思いついたあと、「待てよ。それは、こっちよりブログに書いたほうがよくないかな」と迷い、あきらさんと次回連載に向けて進めている「Sex and the Ageのネタにした方がよくないだろうか」と必ず迷います。そして、「うん、やっぱりブログに書くことにして、ここは別の話題でお茶を濁そう」などと決めて書きだします。
この迷いは、たとえば、あちこちに別荘を持っている人が「この家具は、ここより、あっちに置いたほうが映えるな」と考えるのに似ている気もするし、「このお金は、あの銀行じゃなくて、あれをこうして増やそうかな」と考えるのにも似ている気がする。
なんか、ちょっと富豪感覚。贅沢な悩み、感覚。もちろん富豪だったことはないので、ほんとのところは、わかんないですけどね。
ただ、いつも頭のなかで思い浮かべるのは、「えっと、この苗は、こっちのプランターじゃなくて、こっちに植えよう」とか「この種は、こっちの花壇じゃなくて、あっちの端っこに植えよう」とか、そういう菜園&ガーデニング風景です。
ブログのことを考えると「ちょっと新しい苗を植えないと寂しい庭になっているなあ」と思うし、ウェブマガジンのほうを考えて「あのあたりに、こんな苗を植えたらスクスク育つかもしれないけど、その苗を探してくるの大変そうだな。もっと後で考えよう」なんて思う。
いずれにしろ、自分で植えて、自分で育てて、自分で眺めている感じ。このウェブマガジンだったら、自分とほかの人たちで植えて、育てて、いっしょに眺めている感じ。「あそこ、どうする?」「あれはよかったね」「きれいな花をつけたね」なんてことを、遠くを見たり、近くを見たり、足元を見たりしながら話している感じ。
「眺めている」がキモなんだろうか、と思います。
見つめている、でも、
観察している、でもなく
もちろん監視しているでもなく、
見ていないわけでもない。
もっとずっと前、ブログをはじめた当初は、もうちょっと一体化していた気がするんですよね。ブログと自分が。
いまは、仕事についてもやや「眺めている」感じになってきているなあ。いいのか、悪いのか。
ただ、「眺める」って「待つ」とか「焦らない」とか「寝かせる」とか「信じる」とかと
どこかでつながっている気もします。
あと、眺めるには広々とした「遠景」が不可欠ですよね。
ただ一つのゴール地点でも、漆黒の闇でもない、遠くにいくにつれてボンヤリとする景色。
ボンヤリとするけど、確かにその先も広がっている景色。
そういうのって可能性を信じることともつながっているのかも、かも。
ファイナ
いいことを聞くと、自分は間違った方向に進んでいないんだなと安心できます。周りがどう動いても、自分の決定には関係ないんですよね。年をとって大切なことが分かってくると、残りの人生少し楽になりそうで嬉しいです。