サバイバルのために、「周囲の目をきにしない訓練」は、歯を食いしばってでも。
一昨年の9月に夫が倒れてからのわたしは、普通に生活していても「サバイバル脳」になっていたと思います。時間とともに「サバイバル脳」から「デイリー脳」というか、平常の脳に落ち着きつつある気はしますが、まだ、余韻が残っているので、これからさらに何事もなく推移すると燃え尽き症候群になるかもしれません。やばいな、それ。
サバイバル脳が起動したのは、夫が救急車に運び込まれる瞬間。わたしがいないときに夫が倒れていたので救急車とパトカーがドラマティックに登場し、びっくりするほどの野次馬さんたちが、取り囲んでいました。子どもを肩車しながら目を輝かせてのぞき込む親子や世間話に興じながら担架の登場を待つおばさま…。その人たちに向かって「見世物じゃありません。帰ってください」と言ったのです。
この話をすると近所の友だちは「よう、そんなこと言えたな」とあきれますが、今思えば、あれは自分の運命への宣戦布告でもありました。対決的な言葉で「サバイバル脳」の起動スイッチを押し、救急車に乗り込めてよかった。それ以後の行動の原点になりました。
「サバイバル脳」になったので、すべての判断基準が「生き残ること」になりました。親戚や友人が夫の奇跡の回復を祈ってくれるなか、わたしは一度も心の底から希望をもったことはありません。自室で倒れて昏睡している夫を発見した瞬間、その希望がないことを直感したからです。だから、まず、わたしが生き残ること。わたしと、この状態の夫と、そして娘の未来を守ること。目的が明確になったので行動も早くなりました。
ベストな病院へ転院させようと発病後2週間後には見学に行きました。奇跡は信じていなかったけれど、医療とリハビリの可能性は信じていたからです。わたしが祈ろうが祈るまいが出る結果は出る。そこに身を任せようと思いました。この迅速な行動によって現在までの恵まれた環境が手に入りました。
…なんてうまく行った事ばかり書いていますが、行動したことのなかには功を奏しなかったものもあります。お金の不安があったので仕事を作らなければと焦りましたが、同情は仕事にもお金にもならないことも学びました。まあ、それも含めていい勉強になったと思います。
もうひとつ、サバイバル脳が可能にしたことがあります。それは、「夫が打ち捨てられたように見えても気にしない」と決めたことです。これは、特に現在の療養型病院に転院してからですが、朝、きれいに看護師さんが顔を拭いたり、ひげを剃ったりしてくれても、午後には、目やにが出たり、よだれが出たりして「打ち捨てられている感」が醸し出されます。「ほったらかしにされている感」と言ってもいいでしょう。
わたしは、親戚などが「お見舞いに行く」と言ってくれても、自分の都合が悪かったり、その日は休息をとるつもりだったりしたら、同席しないようにしていました。これは、何度も書いたことですが、「お見舞いへの対応を接待にしない」ためです。接待疲れほど無益な消耗はない。そうはいっても「ああ。でも、打ち捨てられたように見えるよなあ。顔だけでも拭いておきたいなあ」と思います。やっぱり、いいところを見せたいのです。ちゃんとしていると思われたいのです。
でも、次の瞬間、身をまもるサバイバル脳がこう言います。「打ち捨てられていると感じる人は感じればいいよ。それは、その人の感想だから、どうすることもできない。それに打ち捨ててなどいないし、放ってもいないのだから」
そう。極論すれば、闘病する本人とその闘病に責任をもち、その責任から逃れられない者(この場合、妻であるわたし)以外は、あのパトカーを取り囲む人々とさほど変わらないのです。好奇心か心配かの違いだけ。もちろん、心配はありがたいし、心配による行動にたくさん支えられ、感謝もしていますが、それでも、取り囲む人々は、いつの間にか去っていき、当事者だけが残るのです。
周囲の目を気にしない訓練は、サバイバルのための必須の訓練。歯をくいしばってでもやるべきです。そして漠然とした「周囲」を気にしない分、医療や介護などプロフェッショナルとの良好な関係づくりに注力することです。
そういうわけで、なんとかサバイブしてまいりましたが、これからどうなるかはわかりません。燃え尽きず、小さな幸せ、見つけられますように。また、順次報告します。てか、報告させて(笑)
Jane
ご主人が倒れられてから今日までのカリーナさんの記事が、順を追って思い出されました。いろいろありましたよね、実務的な手続きや、急を要する決断や、ご親族はじめお知り合いとのあれこれ、そして新聞連載や、デトックス会も。数か月前だったか、非日常が日常となっていき、介護の当事者以外からの関心も薄れていくのは当然、というようなことを書かれていたと思いますが(記憶違いでしたらすみません)、だんだんとそのステージに近づいてこられたのでしょう。
これからもご報告ください、お聞きします。
匿名
全くその通りだと思います。
わたしもお世話になっている医療関係者と信頼関係を築けるように気を使っているつもりです。
モーリー
はじめてコメントさせていただきます。
カイゴデトックスin京都ではお世話になりました。
ブログやTwitter、ウェブマガジン、新聞の記事、たくさんのCarinaさんの文章を読ませていただき本当に感心しています。というか、
いつも、どう表現したらいいのかわからない私の心底の気持ちを言葉にしてくれて、
ありがとう。
さすがという気持ちです。
『それでも、取り囲む人々は、いつの間にか去っていき、当事者だけが残るのです。』
そうですよね。その通りですね。
でも、そんなCarinaさんの心の叫び?的な文章を、いつも感心して納得している私がいます。
たくさんのファンがいます。
遠くからですが、こっそりエール送っています。
ホタルブクロ
40代の半ばを過ぎ、なんとなく過ごしてきた日々を少し悔やみつつも今の穏やかな日常も手離したくはない。もう少しなにか頑張れるのかな、いや無理かな、と自問自答しながらパートに行き、買い物に行き、料理をして、犬の散歩をする。
最近そんなぼんやりとした毎日でした。子どもが手を離れて、自由を謳歌するキラキラした10代後半を間近にみているせいもあるのでしょうが。
けれど、カリーナさんの文章を読んで少し元気がでました。生き残るためにいろんなものを取捨選択して前に進んでいくカリーナさん。うーん、やっぱりかっこいいな。
状況は全く異なるのだけれど、私のこのぼんやり生活のなかにもまだまだやり残してることや変えなくてはならない思考や習慣があるのではなかろうかと。
うまくまとめられないのだけど、カリーナさん、いつもありがとう❤️ カリーナさんのブログにいつも救われています。
カッコ
カリーナさんの文を読み、今、自分はどうしたいのか改めて考えました。
うちの主人は脳出血で倒れ、多くの人後遺症がのこりましたが、在宅で生活できるところまでは回復しました。
ただ一人で生活することは難しく、介護できる人間は私ひとり、プロの力を借りているものの、私の生活も主人の事を考えることが第一優先となりました。
外から見るといい妻かもしれませんが、主人の前では愚痴ばかり言ってしまいます。
主人の生活を守りながら、自分らしさもなくしたくない。
今、色々もがいておりますが、
カリーナさんのサバイバル脳。
刺激になりました。
私も小さな幸せ探しながら、もう少しもがいてみます。