「どうする?墓」というホットな話題。うちの場合のあれこれ。
こんにちは、カリーナです。
3月末に納骨した夫。お墓は、芝生に20センチ四方ぐらいのプレートが埋まっているタイプです。それが、ズラリと並んでいるもの。
「お骨はどこに入っているの?」とよく聞かれますが、わたしもあまりわかっていなかったけれど、納骨のときにプレートをパカっと開けてその中にお骨を入れていたので、プレート下が各家庭の占有スペースということになります。今は、夫と犬のパロンが眠っています。
昨日、夫の兄夫妻と甥夫妻が来てくれて、いっしょにお墓参りに行きました。
天気がよくて、新緑がサワサワと揺れて、ところどころに藤の花。霊園のなかも色とりどりの花が咲いて明るい雰囲気。お参りしている人も多くて活気がありました。
みんな「いいところだねえ」と褒めてくれて(気を遣ってもくれて)、ホテルでおいしい中華料理をごちそうになって、お菓子をもらって、お菓子をあげて別れました。
その後、義母から電話がありました。義兄が、いろいろ報告してくれたのです。写真や動画も見せて墓地の様子を説明したのでしょう。
義母は、「芝生のとこだけじゃなくて、普通の墓石のところもあるね」と言いました。
嫌な予感。「はい、そうなんです」
「じゃあ、これから墓石を立てる、ということもできるんやね?」
「できないです。するつもりもありません」(袈裟斬りの勢い)
この感じのやりとり、納骨後にもしたんだよなあ。
つまり、義母は、「息子の墓はもう少し立派であってほしい」のです。
その気持ちもわからないわけじゃないの。50代で倒れて意識が戻らずに死んでしまった息子のせめて墓ぐらいは立派にしてあげたい、と思うのでしょう。人生の集大成的なものとして。立派じゃなくても人並みでいてほしい。
・・・みたいな感じ。今、その「人並み」が揺らいでいるんですけどね。それはもう、なかなかわからないのか。90歳。
わたしも20センチ四方のプレートの風景を「ああ、すばらしい。なんてすばらしい墓なんだ!」とは思っていません。なぜ、思わないかって、それは立派なお墓じゃないからではなくて、「みんなが趣向を凝らしすぎて、てんでんばらばらなデザインのプレートが並んで統一感がない」から。難しい問題ですねえ。みんな、自分ちの個性を出したい、個人の生き方を反映させたい…その思いが、バンラバラ感を高めて、高級感を損なう。
墓地というのは、(実は住宅地も同じだが)、あまり個性的にしないほうがいいのです。周囲に調和する端正なデザインがズラリと並ぶほうが上品で高級感が出る。そこに木々の緑と四季の花、とかね。しかし、まあ、そうもいかないのでしょう。
なーんか、自分ちの近くに広い野原があって、そこに一本の木を立てて、その下に埋葬する、とかが理想だなあ。石なんかいらんし、ああいう墓石墓石したものは、そもそも好きじゃない。
静かな場所に密やかに眠る、みたいな埋葬の仕方がしたかったけど、法律的に墓地以外には埋葬できないもんね。
不思議なもので、その雑多な芝生墓地の小さなプレートの下に自分が入るのは少しもイヤじゃないんです。木々が見えるし、明るいし、隣にはいろんな人たちとペットが眠っているし。いずれスーも一緒に入るし、狭いながらも楽しい我が家。つまり、墓もかなりの部分、見栄なんだな。生者の見栄。
そういうわけで、よしとする。お義母さんもよしとしなさい。以上。