今のためか。未来のためか。捨て時のわからない「記録」「思い出」
こんにちは、カリーナです。
いまぐらいから、少しずつ大掃除的なものを進めていくといいですよねえ。
わたしは、わりにサクサク捨てるほうなんですが、押入の天袋のところには、20代から30代半ばにかけて劇団を主宰していたころに書いた脚本や資料がズラッと並んでいます。後で読み返すとか、万が一、何事か起こって世に出るとか思っていたのだろうか。
それを、いよいよ今年は捨てようと考えております。
なぜか。自分が読み返さない以外、何の用途もないから。
そして、読み返すことなどないから。
実は、いま、こうやってパソコンに向かっている机のその下に、かつて書いていた分厚い10年日記があるのですが、それは数年前に読み返しました。
なぜか。そのシチュエーションはちょっと特別です。5年前に夫が倒れて、借金が発覚したのですが、夫の部屋から彼が消費者金融に過払い請求したときの書類が出てきたのです。何年から何年の間、いつ借りて、いつ返したか。それがズラリと打ち出されたものです。
ジーッと見ると、わりと大金を借りたときがある。むむ。いつだ。何をしていたときだ?
調べずにはいられず、10年日記を引っ張り出したのです。あくまでも自分の日記であり、夫のものではないのですが、何となくうっすらと当時が思い出せる。
「ああ。このお正月か。実家に帰るために見栄を張ったな」とか、そういうことがわかりましたが、もちろんわからないことの方が多かった。
で、この日記をもう一度、引っ張り出して読むだろうか。自分の人生を懐かしむために。
なさそうな気がするーーー。
毎日のごはん記録とかのほうが、みんなで懐かしむことができていいのかな。
亡夫のスケジュール帳は残していて、ときどき、というよりは、もうちょっと少ない頻度で開いて見たりしています。文字が懐かしいし、日々、刻々と動いている感じがある。
ああ。やっぱり懐かしんでいるのか。
でも、それ、手帳だからいいんですよね。月間スケジュールとか、そのときに思いついたアイデアとか、やるべきこととか、ちょっとしたメモが書いてある。こういうもののほうが、残った人間は見やすい。縷々綴られた悩みや迷いといった内面は重いもん。うっすら感じるぐらいがいい。肉親であっても。
日記は、自分が振り返らないなら、捨てちゃったほうがいいかもなあ。
しばらく寝かして、捨てることにするかあ。
オバフォーは今週もコツコツ更新します。時間のあるときに遊びにきてください。