人生を「カラダの不調」にのっとられないバランス感覚を身につけたい。
こんにちは、カリーナです。
みなさん、お元気にお過ごしですか。
年をとると「あっちの病院、こっちの病院。病院の待合室は、高齢者ばかり」と言われるし、実際、そのようです、というかそのとおりです。なかには、「医療費の無駄」「大した症状もないくせに」「暇だからだろう」と言われることもあり、自分もかつてはそう思っていただけに「う、うん。そう思うよね。でもね、今になると少しわかるんだけど…」と小声で事情を説明したくなります。
同時に、私たち自身も年齢とともに①どの段階で病院に行くのか ②どこまでの回復でよしとするのか ③自分の体調にどれぐらい関心をもつのか というバランス感覚が大事になってくるなあと思うのです。特に、加齢による慢性的な痛みや不調の場合は。
若いときと同じような絶好調を望んだり、まったく何も気にならないパーフェクトな状態を追い求めて、自分のカラダの一部を観察し続けたりすると「ああなのではないか」「これがこうしてこうなっているのではないか」「こうしたら、こうなるのではないか」「ああ、いつまでも調子が悪いのはどうしてだ」という素人の根拠なき、終わりなき試行錯誤の沼に陥ってしまう。
人生を、カラダの好不調にのっとられてしまうのです。
これはいかん。と思いました。
…過去形なのは、私が先週、肩が痛くて仕事をしていても、家にいてもずーっと気になっていたからです。人生を肩の痛みにのっとられそうだ、というか、のっとられていた。うっすらとでも気になる、というのは、それがずっとであれば、「のっとり」だなと思いました。
そこで金曜日、仕事が思いのほか早く終わったので整形外科の夕方の診療に飛び込みました。昨年夏に頚椎症と言われ「数か月で治りますよ」と言われてそのままにしていましたが、「これ五十肩じゃない?」と思いつつ、忙しさにかまける+自然治癒に期待のふたつでズルズルと病院に行かず。(①の病院への行き時を逃しているのです)
レントゲンを撮ってもらい、丁寧に触診してもらった結論は「五十肩でしょう」。
ですよね。
「もう時間が経っているので、肩を動かしましょう。動かなさ過ぎて、痛みがとれないのかもしれません。来れる日にリハビリに来て、家では、このような体操をすること」とパンフレットをもらいました。そしてさっそく滑車を使って腕を「痛いと感じた、その少し先まで」伸ばすストレッチをしました。
こ、こんなに痛いのに、動かすんですかあああ。
つまり、五十肩の3段階、急性期→慢性期→回復期のうちの、慢性期にとっくの昔に突入していたのに「急性期ではないか」と不安になり、素人判断で肩を動かさず、どんどん拘縮が進んでいたのですね。(拘縮、夫の病気のときに何度も耳にし、その恐ろしさを痛感している言葉です)
そういうわけで、今、お風呂上りなどに痛みをこらえて体操しています。すぐに痛みはなくならないけど、肩は楽になってきたので、「このところのひどい痛みは、もしかしたら肩こりだった?」とさえ思っています。
病院の行き時、大事。
不調との付き合い方も大事。
昨日も調子はイマイチだったけど、姪に誘われて舞台「ジャズ大名」を見に行ってきました。千葉雄大、びっくりするほどよかった。姪とのランチも楽しかった。不意に通りすがりの女性に「〇〇さん!」と劇団当時の名前で呼ばれるというびっくり仰天な出来事もありました。かつての知り合いでした。30年ぶり!
不安や不調は先取りして解決できればして、すぐには解決できない場合ものっとられないようにして人生の一日一日を楽しみたい。それって、生き方の哲学を作ることに近いのかもしれないと思います。
今週もオバフォーはコツコツと更新します。時間のあるときに遊びに来てください。待ってまーす。
Jane
カリーナさんや他のオバフォーの皆さんが、あちこち痛くても気を紛らわせる方法を模索しながら今日も頑張ってらっしゃることに励まされますし、一年一年痛みが増えていくことへの心構えができます。
カリーナ Post author
janeさん
そう言っていただけると、心底ほっとします!
ポッドキャストでもお名前を出しましたが、
「話していいんだ」と思って、これからもぼやきます(^^)