他人を理解する唯一の手立ては、「どちらにもなり得る自分」だ。
こんにちは、カリーナです。
6年前の昨日、犬の散歩から帰ると夫が意識不明で倒れていました。その4年後に亡くなるのですが、わたしにとっては、この9月1日がもっとも忘れがたい日なのです。
自室で倒れて高いびきをかいている夫のそばには怖くていられず、台所側のベランダに立って救急車が来るのをひたすら待っていました。
昨日、あの日と同じようにスーの散歩をして帰ってきて、そのときの自分を思いました。ベランダに立つ、かつての自分のもとに今のわたしが歩み寄るところまでは、何度も想像します。
それから、どうするだろう。
何か言葉をかけるかな。「大丈夫だよ。6年後もちゃんと生きてるよ」なんて言うんだろうか?いや、きっと言わないな。あのときの自分は、そんな言葉を聞いたからと言って楽にならないし、うれしくもない。
それにわたしのこの6年間を「大丈夫だよ。ちゃんと生きてるよ」なんて言葉で要約することにも抵抗がある。
違う、違う。そんな安易な言葉による「励まし」は、あの日のわたしにも、今のわたしにも失礼だ。
あのときより6歳お姉さんになったわたしは、6歳年下のわたしに歩み寄り、背中にそっと手を置いて、黙って隣に立ち、救急車が来るまで一緒にいよう。それが一番いいと思いました。
自分の背中に手を置いたことなんてないのに、なぜか「背中に手を置かれた感覚」と「背中に手を置いた感覚」のどちらも想像できるのが不思議です。
わたしは多分、これからも、だれかを慰めたり、支えたりしたいと思ったとき、この両方の自分を思い描くのでしょう。他人を理解する唯一の手立ては、「どちらにもなり得る自分」だ。
役に立つことをするか、黙ってそばにいるか。
「励まし」の言葉に悩んだら、この二つの選択肢を思い出そうと思います。
よ
ああ励まされるなあ。どっちも自信がないと思っていたので。でもどっちになってもなんとかなるかも、とお守りにします。