目立つのは、「きれい」「新しい」「ボロボロ」。でも、時を経て気づくのは…。
こんにちは、カリーナです。
毎度毎度、犬の散歩の話で恐縮なんですが、この話は、毎度毎度、散歩というかたちで近隣を歩いている人間ならではの発見な気もしないでもないので、ちょっと聞いてもらっていいですか、というか読んでもらっていいですか。
スーと散歩して7年が過ぎました。見るともなく家並みを見ながら歩いてきたわけですが、最初は「きれいな家」「新しい家」「廃墟のようなボロボロの家」の3つがどうしても目につきます。「きれいな家」というのは、庭の花が華やかできれいだったり、デザインがおしゃれだったりとパッと目に飛び込んでくる家ですね。
「きれいな家」も「新しい家」も「廃墟のような家」も共通点は一つ、「目立つ」ということです。
これ、人間にも当てはまりません?最初は、「華やかできれいな人」「新しくて流行の服を着ている人」「ボロボロの格好の人」が印象に残る。共通点は「目立つ」です。
それが、7~8年も同じあたりを歩いていると「あら?」ということが起こるのです。
「あら、この家、こんなに感じよかったか」とある日、気づくんですね。
玄関のあたりがいつも整然としていたり、特段、庭がきれいなわけではないけれど、自分にできる範囲で手入れをしているせいか整った印象を与えたり、昔ながらのデザインだけど周囲にしっくりと馴染んでいい味を出していたり、窓の向こうにかすかに見える調度品が落ち着いた暮らしをうかがわせたり…。家の大きさや立派さとはあまり関係ありません。明らかに家賃の安そうな家にも「あら?」と気づくことがあります。
「建設当時に流行したデザインだから、どうしても古ぼけて見えるけど、よく見たらいい感じの家」というのが、一番、気づくまでに時間がかかります。当時の「普通」が「普通」のまま推移し、「古い普通」になって視界になじみ、意識に上らなくなる。でもいい感じだなあみたいな。
人間も何度か会ううちに、「この人って実はおしゃれなんだな」とか「この人、よく見るといつもちゃんとしてるな」とわかってくる人がいますよね。
家も同じだなあと思います。
最初は気づかない。平凡で古ぼけて見える。でも、何度も見るうちに「あら?」と思う。
日々の暮らしは本質的に「他者の視線や評価」を意識続けることは不可能なので、パッと見は「どうってことない」ように見えるんですね。
でも、そこにこそ習慣という人生があり、慈しみたい時がある。
世界は今、威勢のいい言葉や目立つ行動に翻弄されていて暗たんたる気持ちになりますが、今日も明日も、犬と散歩をしながら心を落ち着け、わたしのいる場所とわたしの知らない場所にある「目立たぬ家とそこにある営み」に敬意を払っていきたいと思います。
オバフォーは今週もコツコツと更新します。時間のあるときに遊びに来てください。待ってまーす。