「もう、娘さんより、スーちゃんのほうがずっと頼りになるねえ!」と言われる。
夕方の散歩の帰り、近くに住むYさんに会いました。Yさんはずっと昔、大きな犬を飼っていたのでスーを見るといつも喜んで話しかけてくれる80歳ぐらいの女性です。
ほとんどの人がそうするみたいにYさんもスーの頭をなでようとすると、スーはほとんどの場合、そうするようにヒョイっと避けたりして、懐いてるのか、どうなのかビミョーな反応。
で、それは置いておいて。
Yさんのダンナさんは足がかなり悪くなって動けなくなってしまっているので最近の体調や介護のことなどを聞き、「なんかあったら助けてね」と言われ、「いつでも呼んでください」と言いました。この高齢化の進んだマンションでは、わたしは若者なんです。若者にできることは率先してやらなければなりません。(ここでは転んだダンナさんを立ち上がらせるとか、そういう事態が想定されている)
Yさんもわたしのことを気にしてくれて「娘さんは、どうしてるの?」「また大学行ってるんやったっけ?勉強好きやねえ」と褒めてるのか、呆れているのかビミョーな発言。まあ、その反応もわかる(笑)。
「じゃあ。ほとんど一人?」「はい、一人です」「もう慣れた?」「そうですねえ。もう、7年ぐらいになりますから」
「そうかあ!もう、娘さんより、スーちゃんのほうがずっと頼りになるね!」
「ははは。そうですねえ!」
そして、「(寂しかったら)いつでも話に来てよ!遊びに来て!」と「気持ちはわかるから、みなまで言うな」という顔で言われました。
あらら?「手助けする若者」のつもりでいたら、「独居の寂しい人」になってるぞ。
一人暮らしの人間には、起こりがちな場面展開だ。
一人≒寂しい≒可哀そう というやつーーー。
ま、いいんです。いいんです。
一人暮らしに対するイメージも、母娘関係に対するイメージも人それぞれだから、「一人で寂しいだろうなあ。可哀そうに」と思う人だって、「娘さんも家から通って一緒にいてあげればいいのに」と思う人だっているでしょう。それも、その人の優しい気持ちから生まれたもの。あと、その人自身がとても寂しがり屋さんとかね。
「同情」や「優しさ」など人が人に心を寄せるときには、ちょっとした「固定観念」や「偏見」が混じってしまうものなんですよね。だれだって自分の価値観に縛られているし、そこからしか判断できないから。
人と人の心の交流には、いつも少しだけ互いへの誤解が含まれている。
多少の誤解への寛容さって大事ですからね。自分だって誤解してるんだろうし。「誤解されてるなあ」と思って流すのが最善。
カレー記念日の再開を待ってくださっているみなさまへ
こめPのコロナ後遺症による体調不良で休載の続いている
「カレー記念日」と「カレー記念日 今週のおかわり」。
休載を承知で投稿してくださっているカレー短歌は、
こめPも、わたしたちもうれしく、うれしく
拝読しています。
ありがとうございます!
こめPは、目下、はやる気持ちを抑えて、
ゆっくりじっくり熱心に回復をめざして療養中です。
連載再開まではまだ少し時間がかかるかもしれませんが、
どうか、気長にお待ちください。
加齢にクスっとしたり、あーあと落ち込んだことがあれば、
カレー短歌投稿くださいね。
しっかりストックさせていただきます!