心配するということ
心配することについて、
「心配されたこと」と、「心配したこと」の2つのエピソードを書いてみました。
☆
彼女に会うのは久しぶりだった。
この頃は滅多に会うこともなく、突然のラインでの誘いにちょっと驚いたくらいだ。
特に断る理由もないのでふたりでランチをすることになった。
お互いの近況などを軽く話したたところで、
「そういえば、あれからどうなった?気になっていたんだよ」と話を振られた。
アレと言われても、どのアレなのか、さっぱり分からない。そのぐらいお互いの距離がひらいていたということか。
「ほら前にmikityさんのラインに書いてあったこと。大丈夫だったかなあと思って」
ああ、あのことか。すっかり忘れていた。ちょうど一年前くらいに大きく気分が沈むような出来事があり、大変なことが起こった!とだけ彼女に連絡したのだった。
確かにそれは、私のこれまでの世界がぐらりと揺れるような出来事だっただのだけど、
いまではすっかり忘れるほどに解決済みのことだった。
「ああ、あれね。もう全然大丈夫。一時はひどく動揺したんだけど、とにかく話を聞いて欲しくて
周りの人に話をしたの。そしたらみんな、想像以上に真剣にちゃんと受け止めてくれて、いつのまにか私の気持ちも落ち着いたのよ。」
「そっか、そっか。それはよかった。ずっと心配してたんだよ」
ずっと心配してた?
一年以上連絡もないのに?
心配してないよね。今、思い出したから聞いてみただけだよね。最初にこの話題になったときから感じていた違和感が大きく膨らんだ。ああ、そうか。心配は、する方と、される方で立ち位置の上下が
はっきりする。このとき彼女は心配する方の側に立ちたかったのだ。
何となく疎遠になった理由が分かった気がした。
今度はわたしが心配する側の話。
このところ86歳の父の健康状態がよくない。前々からたくさんのクスリを服用していたのだけど、
最近さらにもう一種類クスリが増え、それがきっかけで全身に蕁麻疹が広がっているのだ。
最初はそのクスリが原因とわからなかったため、一月以上も飲み続けてしまい、
蕁麻疹が慢性化してしまったようだ。皮膚科で薬をもらってもきても一向によくならないようだ。
高齢でもあるし、体力を消耗していって別の病気を引き起こすのも心配で、たびたび電話をかけて様子を聞いた。「そのお医者じゃ、らちが空かないから病院変えてみたら」
「ごはんは食べられてるの?」「いっぺんしばらく全部の薬を飲むのやめてみたら?」などと、
気づいたらあれこれ指図していた。言い過ぎたかなと思ったりもしたけど、だって心配なんだから
しょうがないじゃないと思った。
しばらくして様子を見るため実家に帰った。
「背中みせて」と父に言うと、「ほら」とシャツをめくって背中を見せ、
「気が済んだか?」と言ったのだ。ハッとした。
その一言で、父が心配されることにうんざりし始めていることに気づいた。
父の気持ちを損なわないようにしていたつもりだったけど、娘に過剰に心配されることでいままでの
自信も失われ、さみしい気持ちにもなっただろう。心配はしすぎてもいけないと思った。
わたしが20代の頃、大きな悩みを抱えていたときのことだ。
「心配しないで、待ってるから」と言葉をかけてくれた友人がいた。
すごくうれしかったし、信頼されていると感じた。心配されない私に自信がわいてきた。
私、大丈夫なんだ!って思えた。何十年たってもこの言葉は忘れられない。
心配するのは相手を思っての行動ではあるけれど、心配しないでいるってことも
同じくらい相手を思っているのだと思う。