あのとき、死んでいたのかもしれない。
東京に出てきたばかりの頃。世の中はバブルが弾けて、えらいことだと騒いではいたけれど、なんとなく、「バブルほどじゃなくても、少しすれば景気も落ち着くだろう」とのんきに構えていた気がする。広告の原稿に「未来は」とか「大きな可能性が」とか書きながら、そんなものあるんかいなあ、と思っていた。そして、文字で書いている「未来」っていったい何のことなんだろうと思うと、いつも映画『2001年 宇宙の旅』のオープニングが浮かんでくるのだった。
猿人たちが荒野で暮らしていて、時に争い、時に協力し合いながら生きている。その中の一匹が死んだ動物の骨を手にして、それを武器にしてリーダーになっていく。そして、彼が真っ白な骨を天高く放り投げると、やがて、それが宇宙空間に浮かぶ宇宙船になる。
「あ、来年2001年だよ」と東京・銀座にあった取引先の誰かがふと呟いた。「え」と僕が声をあげる。来年、2001年なの?今年が2000年なんだから、そりゃそうだよね。来年は2001年だ。2001年宇宙の旅だ。その瞬間に、僕は小さな鬱になったのだった。たぶん。
人類なんて、2001年になってもキューブリックが描いたような宇宙旅行も実現していないし、車だって空は飛ばないし、ようやくハイブリッド車「プリウス」が販売されたばかりだ。それなのに、バブルは弾け、小さな個人事務所をやっていた僕は、自分が吹けば飛ぶような存在だということを思い知らされていた。それなのに「いやいや、いまITバブルが来てるから、大丈夫ですよ」と言う同業のハゲ親父の言葉は吐き気を催した。
大阪で設立した個人事務所は、一応、会社組織になっていたし、何人かの社員も雇っていたけれど、景気が悪くなったらどうしようなんて、これっぽっちも考えていなかった。でも、焦るとか、慌てるとかいうことはなく、ただただ、呆然としている感じだった。まだまだ仕事もあったし、たぶん、こうすれば大丈夫という道筋もあったのだろう。けれど、僕にはそんなことをかんがえる心の余裕がなかった。
で、渋谷で取材を1件こなしたあと、僕はサボったのだ。渋谷に出来たばかりの超高層ビルの高層階で新興のIT企業の社長にインタビューをして、彼が大学を卒業したばかりの自分よりも一回り以上年下だと知り、彼に「将来の夢は?」と聞くと「儲けるだけ儲けて、株価をつり上げて、売り抜けたいですね」という答えを聞いたのだった。
「本日はお忙しいところ、ありがとうございました」と深々と頭を下げて、渋谷から銀座の事務所に帰ろうと歩き出したところで、なんだかぼんやりしてしまい、僕は渋谷のNHKの近くを歩き、代々木公園のベンチに座った。「ああ、ここは、1985年に佐野元春が『Young Bloods』を歌ったところだ」と思いながら眺めていた。
静かな冬のブルースに眠る
この街のニューイヤーズ・デイ
大地に果てしなく降るモーニング・ライト
歌詞がするすると出てくる。この歌をパクリだとかいう奴もたくさんいたけれど、うるせえよ。元春は元春の歌を歌ってるんだ。なんてことを思いながら、僕はしばらくベンチに座ったまま、佐野元春の歌を口ずさんでいた。どのくらい時間が経ったのだろう。気が付くと、次のアポを過ぎていた。当時、すでに携帯電話はあったのだが、その前の取材の時に電源を切っていたので、誰からもかかってこない。かかってこないけれど、明らかに時間は過ぎている。もう、怖いから、今日一日電源を切ったままにしよう。そう思ったことだけははっきりと覚えている。
大地に果てしく降るモーニング・ライトは、すっかり夕暮れになり、公園の中は帰路を急ぐ人たちでそこそこの人通りになっていた。こうもしていられないな、と僕は立ち上がり、渋谷駅に向かって歩いた。日本中で僕がいちばん嫌いな街は渋谷かもしれない。そんな大嫌いな渋谷の街を歩き、東京メトロの渋谷駅に着いた。長いエスカレーターを乗り継いで、改札を通るといきなり銀座線のホームが現れる。
目の前に車両が停車していた。僕はその車両に向かって歩く。もうすぐ乗れるぞ、と思った瞬間に腕をつかまれた。えっ?と思ってつかまれた腕のほうを見ると、スーツ姿の初老の男性が、「落ちるよ!」と小さく叫んだ。僕は、立ち止まり、前を見ると、車両があったのは向かい側のホームだった。当時、ホームドアはまだ無かった。そのまま歩いていれば、僕は線路に転落していたはずだ。ふいに怖くなった瞬間、電車がホームに入って来た。転落していただけじゃなく、僕はおそらくひかれていた。
事の重大さに気づいた僕は、腕を掴んでくれた男性に、頭をさげて「すみません」と謝った。男性は困ったような顔をして、少し笑った。「ありがとうございます」と言おうとしたのだが、言葉にならなかった。
四半世紀も前のあの日からしばらくの間、僕は、「渋谷駅でホームから落ちかけてさ」とこの体験を話すことはあったのだが、それはただ危ない目にあったというだけの話だった。でも、いま思うと、あの日、僕は死んでいたのかもしれないな、と思う。死のうとしていたのではないと思う。でも、死ぬことになんの抵抗もなくなった瞬間だったのかもしれないと思う。
僕にはときどき、そんな時間や空間が訪れている気がする。だから、怖いのだ。周囲の人たちに迷惑をかけないためにも、そんな時間や空間に包まれるわけにはいかない。僕がヨメさんに、少しくらい鬱陶しそうにされても、そばから離れないのは、この世界にとどまっているためなのかもしれない。なぜか、2025年になってから、そんなことを思うようになった。
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植松事務所
植松雅登(うえまつまさと): 1962年生。映画学校を卒業して映像業界で仕事をした後、なぜか広告業界へ。制作会社を経営しながら映画学校の講師などを経験。現在はフリーランスのコピーライター、クリエイティブディレクターとして、コピーライティング、ネーミングやブランディングの開発、映像制作などを行っています。