子どもの誕生日、親の誕生日
みなさんは自分の家族の誕生日を覚えているだろうか。
よく、自分の彼氏や彼女の誕生日を忘れていてケンカになったという話は聞く。まあ、忘れられると腹が立つというか、ちょっと悲しくなるのは確かだ。
ちなみに、僕はヨメの誕生日を忘れたことはない。うちには二人の子どもがいるけど、その誕生日もちゃんと覚えている。
なぜ、こんなことを書いているのか、というと、実はちょいとショッキングなことがあって、僕の実の母が、僕の誕生日を知らなかったのである。という話をすると、「お母さん、いくつよ」と聞かれ「80代半ばだよ」と答えると、「そりゃ、いろいろ忘れる年だよ」ということになる。僕だって、誰かにそんな話を聞かされたら、そう答えるだろうし、実際にそうだと思うだろう。
でもね、80代半ばの母の場合は、まったくボケてもいないし、自分の旦那(僕の父)の誕生日も僕の弟の誕生日も覚えているんですよ。もちろん、自分自身の誕生日も言える。なのに、長男である僕の誕生日だけ出てこないのである。
そう言えば、僕が生まれた日の話をよく聞かされたのだけれど、それは母からではなく、ほとんどが父からだったことを思い出した。父親っ子だったなあとは思う。テレビドラマのように、母に必死にしがみついた思いでもないし、母との関係はかなり希薄だったような気もする。
しかし、それでも、僕の誕生日を知らなかったとは。誕生月も言えなかったらしい(笑)。まあ、(笑)と付けているけど、それなりにショックだったのは間違いない。間違いはないのだけれど、なんとなく母のこれまでを思い返してみると、それも仕方がないのかもしれないという気がする。
なんというか、うちの母は、家族というものに対して、自分から何かしようとか、大げさに言えば、家庭を築き、家族を育んでいこう、という感覚が全くない人だった。逆に父は、幼くして実の姉を亡くし、連れ子のいる継母に育てられたことで、家庭の温かみを渇望するところがあった。僕としてはそれが鬱陶しくて一日も早く家を出たいと思っていた。
ところが、母は粗野な大人数の家族の中で育ち、しかも、貧しい時代の飲まず食わずを経験したことで、その日その日、なんとかなればそれでいい、という人だったと思う。うちの父親は、母の誕生日に日付が変わったとたんに亡くなったのだが、それも、家庭というものに対する想いが希薄な母が、自分の命日をきっと忘れるだろうという危惧から、「もうちょっと頑張って、あいつの誕生日に死んでやろう。そうすりゃ忘れないだろう」という気持ちがあったからに違いないと思っている。
母が僕の誕生日をすっかり忘れていたのは、やっぱり少しショックではあった。あったけれど、僕自身も母に対して、あまたの映画や小説で描かれているような思慕を持ったことがないので、そりゃまあお互いさまかな、とも思う。どっちが先かという話は置いておいて、大事なことはこれからのことだ。誕生日がどうこうではなく、家族がどうつながるのかが大切な時代になっている。タモリが「新しい戦前の始まりじゃないですか」と数年前の『徹子の部屋』で語ったときの衝撃を思い出した。タモさんの言及を待つまでもなく、もはや世界は戦争状態だ。家族を見る目も、しっかりと持っておかないと、いろんなモノを見失ってしまう気がする。
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植松事務所
植松雅登(うえまつまさと): 1962年生。映画学校を卒業して映像業界で仕事をした後、なぜか広告業界へ。制作会社を経営しながら映画学校の講師などを経験。現在はフリーランスのコピーライター、クリエイティブディレクターとして、コピーライティング、ネーミングやブランディングの開発、映像制作などを行っています。