雪の日つれづれ
1月18日、夜中の3時7分。雪が降っている。
夜の浅いうちは、雪になるほどの寒さではないと思っていた。
いつのまにか雨の音がしなくなっていたのに今気がついて、窓の結露をなすって外を覗いてみたら、もうずいぶん白くなっている。
雪の日の静けさというのは奇妙な感じだ。真夜中の3時には、たいていあたりはしーんとしているものだが、雪の日のそれは完全無欠で、空気中にただよう塵のような微かな音も、湿らせた真綿でとんとんとたたくみたいに、すべて吸着してしまう。
「音がしない」ことにハッと気がつくという感覚も不思議だ。先日買った『ニューヨークで考え中』(近藤聡乃/著)という本に書いてあったのだが、ノルウェーのベルゲンでは八十日間途切れなく雨が降り続いたことがあり(←そんな町は嫌だ。)、作者の知人のノルウェー人は、その八十日目の夜中、眠っているときに、雨が「降り止んだ瞬間の音」で目が覚めたのだそうだ。正確には、「音」でなくて、永遠とも思えるくらい長い時間無意識のうちに聞き続けていたものの、「不在の音」に目が覚めたのだった。
普段周囲には、耳が確かには認識できないくらいの微細な音が溢れていて、それらがふいに消えたとき、耳が感覚の固まりみたいになってふわっと膨張して、あわてて音をとらえようとする、ねこが耳をそばだてるときにはほんとうに耳が音のほうに向くけれど、私も自分の耳がそうしたがっていることを時々感じる時がある。
朝になったらどのくらい積もっているだろうか。明日仕事が休みなものだから、無責任にわくわくしてもう寝ることにする。
雪が好きなのは子どもと犬くらいだといわれるが、犬がほんとうに雪が好きかどうかは知らない。私は大人だけど、雪が好きである。
翌朝、7時15分。昨夜は夜更かしをしすぎた。
こんな日に限って健康診断の予定が入っていて早めにでかけた不運な家のものから電話があり、電車に乗れないどころか混雑の度が過ぎて駅内にさえ入れないという。
諦めて帰ってくるように言って、やかんを火にかけてお風呂もわかす。
雪はだいぶ積もった。雨が降っている。
この雨がそのまま雪だったら、相当なことになるところだった。と分別らしく言っているが、本当はどこかで少し残念がっていることは内緒である。
帰ってきたオットが、「もう家の前の道、雪かきされていた…。」と呆然としている。
家の前の雪かき問題。それは通勤問題と合わせ大人を雪嫌いに追いやる巨大要素といえるだろう。
うちの前は袋小路の私道で、6軒の家がその道を共有しているのだが、そのうち奥の家のCさんの、雪かき出動時間がことのほか早い。
うっかりすると、まだ雪が降っているのに出動していることさえある。そしてスキーに行ったときに買ったという雪国仕様の雪かきシャベルを所有している。Cさんこそ、誰よりも雪の日を待ちわびている大人のひとりなのではあるまいか。
しかしここで、ただありがたがってばかりはいられない事情がうちにはあって、それは、この私道のほとんどが(登記上は)うちに属しているという事実である。
うちはいわゆる旗地なので、家の敷地も私道に接している面積も6軒中最小であるにもかかわらず、以前の持ち主のNさん家がかつてこのあたり一帯の地主だったことから、家を購入したときに私道もいっしょに付いてきた。
ふだんはそんなことすっかり忘れて暮らしているが、雪かきという事象が発生するときばかりは、にわかにその事実が頭をもたげて、Cさんの雪かきの音が聞こえるやいなや、うちも慌てて飛び出すことになるのである。
明日の朝は雪かきだなあ、などとぼんやり考えているさなかに表で雪かき音が聞こえてきたときの戦慄たるや…早すぎませんかね!?(もうそういうときは出ない…)
そんなわけで、お国柄か知らないが傘をささずにびしょぬれで帰ってきたオットはお風呂に送り込んで、慌てて着替えて出たときには、もうすっかり雪かきは終了していてCさんの姿は既になかった。そして大粒の雨が降っていた。
そこで、我ながら姑息で小心者すぎる…と思いながら、とりあえず雪かきをするつもりはあったという「やる気の証拠」のために、Cさんの作ってくれた雪かきの道を少し広げてみた。
こういうときになると、自分たちがこの界隈で新参者であることや、片方が外国人で子どももいない、見た目も風変わりな夫婦であることなどが急に気になりだして、「ちょっと変わってるかもしれないけど「ちゃんと」してますよ。」「地域社会のルールを大事にしてますよ」と表明したい気持ちにかられてしまう。「いいひと」と思われて、多少の変わってるとこは見逃してもらいたいと思っている。
Cさんからそんな圧力を感じたことは一度もない、ただ、自分の安心のためにそうしたいだけである。自分のほうが、よっぽど「普通」とかいうことに実はこだわっているのだ。
表でたいしてやることがなかったので、家の敷地内、門から玄関までの細い通路に道を通すことにした。
2m幅の通路は、片方の家の屋根と、もう片方の家の木の枝からの雪が落ちるので、尋常でない積雪になる。
水気を含んだ雪は、スコップを入れると四角いかたちのままにさくさくと切り出されてくる。お皿に取り分けられた料理みたいだ。
なんだかたむらしげるの絵本みたいだなと思う。具体的にどの絵本なのかといわれるとわからない。じっさいにそんな絵があるのかどうかも謎である。
どこか遠くの知らない星で、雪かきをしているところを想像してみた。2m幅の惑星で。
お皿を持った人々が並んで待っていて、スコップで切り分けてどんどん配る。
午後3時。雨ですっかり重たくなった雪がときどき屋根から落ちてきて家を揺らす。
ねこらはそのたび飛び起きて、耳をおっ立てて不安そうにしている。彼らはこの音が、どこからくるのか知らないだろう。
1月19日、18時45分。往来の雪は、人の歩くところはだいぶん溶けた。しかし我が家の雪はいまだ減る気配をみせておりません。もうちょっとやる気をみせてもらいたい。
今朝はでがけに自転車の車輪が雪に埋まって掘り出せず、約束の時間に遅刻しました。私よ、なぜここの雪かきをしなかったのか…。今年もどうぞよろしくお願いします。
byはらぷ
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Aяko
そんな重労働?してたとは露知らず、お疲れ様でした。
我が家の路地の人達も雪かき始めるの早いんだよ、、、。小さい頃、朝6時ぐらいにスコップの音が聞こえてきて恐怖だったのを、これを読んで思い出しました。でも止んでからと思ってると凍るので、早いに越したことはないんだな。
「ちょっと変わってるけどちゃんとしてますよ。」ってことなのか、夫は間違えて集積場に出されたゴミを疑われて、うちのじゃないのに持って帰ってきたことがあり、勿論私と大喧嘩になりました。
はらぷ Post author
Aяkoさんこんばんは。
そうなのです。してたのよ。でも、じっさい私道のところはほとんどやることなかったです…。
路地や私道の雪かきが異様に早いのって、昭和中期の住宅街に多い傾向のような気がするのは私だけでしょうか。自分が子どものときは、ど田舎過ぎたせいか雪かきの記憶はありません。
大通りのほうも人ひとり通れるくらいだけやってみたのですが、そしたら年配のひとたちは通り過ぎるときにみんな「ごくろうさまです」とか言ってくれるのです。おお、なんだか小津映画みたいだ!と思って嬉しかった。でもそのくらい新鮮に感じてしまうということは残念なことかもしれません。こんど私も言ってみよう。
しかし「ごくろうさまです」って若輩者にはなかなかハードルの高い言葉ですね。何歳くらいになったら言ってみてもよいだろうか。
だんなさま、そのまま受け取ってきたところが人の良さを感じさせて素敵です。
しかし勇気を出して「うちじゃありません」って言ってほしかったところですね…。ぬれぎぬをきせられたあげく妻に怒られただんなさまはほんとうにお気の毒ですが(笑)Aяkoさんの気持ちものすごくわかります…。
何かあるとにわかに「やっぱり…」と思われてしまいがちなところと、いったん受け入れられるとものすごく大事にしてもらったりするというのは、どこの国でも共通の外国人あるあるだと思いますが、根っこは同じという気がします。