ニシン盛衰記
みなさんこんにちは。とやにわに手紙調。
日曜日のオバフォー祭り、はらぷも参加させていただきました。
寄稿者という立場で、メンバーと読者とりょうほうの気持ちをいったりきたりしながら、笑ったりじーんとしたり、みんなの様子を眺めたり、なんだか夢のような一日でした。
あんなにたくさんの人といっぺんに会う機会は人生にそうはあるまい。お会いできたかた、嬉しかったです。
そうとう挙動不審であったかと思いますが、どうか水に流してください。次回は挨拶くらいまともにできるようになりたい。
つながってんだなー、と思いました。人生も、人間関係も。あたりまえだけど、そうなると「自分だけ」ではなくなって、あらがえない感じにもなる。それがまたよい、などと思いながら、こうふんしたあたまで帰りました。
みんなもこうして、家に帰ってもあたまふわふわしてるのかな、と思って楽しい気分でいたら、ふわふわどころか皆バタバタと体調を崩し、私も治ったと思っていた咳が復活!まさかのオバフォークオリティ。こうふんしすぎ。
ミカスクッキング、私はノーテクニック助手で、パンにピーナッツバターをペタペタ、小関祥子さんとピーナッツバタージェリーサンドタワーをこしらえたことが自慢です。
日曜の機会をつくってくれたメンバーズ、参加してくださったみなさん、ほんとうにありがとう。
で、あとは通常運転の「なんかすごい。」
前回に書いた、運転の練習の成果をたしかめるべく、というわけではないが北海道に行って帰りました。
行き先は、余市町、積丹町、神恵内村、泊村…どこなんだそこは。
余市は知っている。ニッカウヰスキーのあるところ。朝のドラマで有名になった。ここが積丹半島の入口で、あとの3つの町や村で半島を分けあっている。
積丹半島は山深く、海岸線からそのまま山が立ち上がっていると思ったら間違いがない。ほとんど、道路部分のみが平地、といっても過言ではないのだった。
湾になっているところのみわずかながら平地があって、そこに港と集落がある。余市を出て順番に、古平(ふるびら)、美国(びくに)、入舸(いりか)、余別(よべつ)、神恵内(かもえない)、泊(とまり)。
いまは海岸沿いに半島をぐるりと囲うバイパス道路ができていて、山がせり出しているところいくつもトンネルが穿たれている。
明治から大正、昭和のはじめごろまで、余市はじめ積丹半島の漁場は、毎年3月〜4月にかけておしよせるニシンを、とってとってとってとりまくって大いに栄えた。
産卵のため沿岸にやってくるニシンの大群は、北海道では「郡来(くき)」とよばれて、かつてはその産卵で湾が真っ白に泡立ったというくらいすごかったらしい。
神恵内村は、今では人口900人とちょっとの、北海道で2番目に人口の少ない静かな漁村だけれど、ニシン漁が最も盛んだった頃には人口5000人を越え、大正元年の漁獲高は北海道いち。漁の最盛期には県外からも大勢ひとが働きにきて、その賑わいはたいへんなものだったそうだ。
沿岸には網元のりっぱな番屋がたちならび、鰊御殿とよばれた。町中には映画館や娯楽場。遊郭2つに娼妓14名(1929年)。
今では想像もつかない。
ニシンは、そのまま食べたり身欠きニシンを作ったりもしたが、それ以外の大部分は鰊粕に加工され、肥料になって日本の近代農業を支えた。それらは、北前船ルートで本州に運ばれていったのだった。
その日泊まった旅館の女将さんがいうことには、網元の旦那衆は、ニシン漁が終わると売上金を持って京都に遊びに行って、翌年の漁が始まる3月までそのまま帰ってこなかったらしい。売上金を持ったまま。そして、きれいな芸者を連れて帰ってきたと…。おい、こら。
1年に数ヶ月、めちゃくちゃに働いて、もうどれだけ稼いでいたかがしのばれるエピソードだが、やっぱり遊ぶといったらたとえ北海道からでも京都なのね!と思ったら、そうか、北前船か!と気が付いた。
以前、山形県の酒田にいったときのことをここで書いたけれど、酒田も北前船の寄港地で栄華を誇ったところである。やっぱり北前船で京都とちょくせつ繋がっていて、土地のことばに京都弁が混じるほど、京都文化を吸収して洗練を極めた。
神恵内のとなりにある泊村で見た鰊御殿も、大工も細工の職人もみな京都から呼び寄せて作らせたという説明のとおり、じつにみごとな意匠をほどこしてあった。この目をみはるような豪壮な建物を出ると、目の前はちいさな漁港で、今は数えるほどの家々と、漁協の事務所。のどかに光る海。なんだか、ぽかんとしてしまう。
隣に立つ番屋の2階には隠し部屋があって(修復のときに見つかったと書いてあった)、どんなときに使ったかというと、
推測1、雇いの漁夫衆が不満をもって暴れたときに家族で隠れた。
推測2、次シーズンが不漁だったさいに借金取りから身を隠すため。
と書いてあったのがおもしろかった。そりゃあ旦那だけ京都行って有り金ぜんぶ遊びまいてるようじゃこんな仕掛けも必要だよ…どんだけ壮大な自転車操業なのか。妻と子はいったい…。
建物内の展示にあった、昭和28年の神恵内村、泊村地図。
古い地図が好きなのですみからすみまで見る。もっとも賑やかだった大正時代と比べると、だいぶ店は減ったのかもしれない。ところどころ引揚者住宅という文字がある。下の泊村茅沼市街図というのは、山のほうに入って炭坑のあったところ。ニコニコ遊技場、田島パチンコ、パーマネントの水上美容院。
28年というと売春防止法施行の5年前…ということは遊郭はまだあるのか…?神恵内村の旅館は2つ。そのうちの町外れにある「花の屋」、これはあやしい…(楽しすぎる)
…で、それはさておき昭和28年。この頃にはニシンはこのあたりからすっかり姿を消してしまっている。
『懐郷かもえない 開村140年記念誌』によると、神恵内村のニシン漁の最盛期は明治30〜40年。
1912年(大正元年)には「ニシン未曾有の大大漁」で漁獲高62000石、道内一位を記録している。
しかし、その数年後、すでに漁獲量はその1/3以下にまで急激に落ち込んでいた。
1921(大正10年) 13660石
1922(大正11年) 34500石
1924(大正13年) 28640石
あっというまに、1925年(大正14年)にはわずか506石。「寿都以北、古宇郡までニシン漁皆無なり。実に悲惨の極なり」と記念誌には書かれている。
1927年に再び「大群来」が訪れるも、それを最後にとうとうニシンは姿を消してしまった。
1930年 「ニシン全然なし」
空前絶後の好景気から一転、この時代に漁師さんという巡り合わせとなった人たちの気持ちは、どんなだっただろうか。
出稼ぎ組合が結成されて、千島・樺太への出稼ぎが盛んになったという記述あり。1931年。
ニシンがこなくなった理由については、乱獲、海水温度の上昇、森林伐採による水質変化やプランクトンの減少などが原因ではないかといわれているが、はっきりとはわからないようだ。
じっさい海水温度ということでいえば、各地のニシンの最後の到来年は、本州から北海道へ年を追ってどんどん北上していったことがわかっている。
でも、明治から大正までのわずか50余年間、みな死にものぐるいでとり放題にとって、おもしろいほど金になった。それはたしかに、狂乱の時代だったのだとあの場所にいて実感できるものがあった。食用に回す分はだいたいいつも一定量だから、それ以上の、港が埋まるほどとった分すべて肥料にしていたのだ。それで本州の農業振興に大いに貢献したとはいえ、とれたてのニシンをどれだけ潰して、その結果あるいは稚魚が育つ間もないほどとり尽くしてしまったのかとそら恐ろしいような気持ちになる。
前にじじょうくみこさんがおすすめしていた『秘島図鑑』に書いてあった、にんげんが乱獲の上絶滅に追い込んでしまった鳥島のアホウドリのことを思い出してしまった。
ニシンがとれなくなると、繁栄をほこった番屋も次々転業し、今となっては当時の建物は、かろうじて間に合って保存されたもの以外、ほとんど残っていない。
さいぜんの泊の番屋にしたって、いつごろ手放されたものかわからないが、おそらくたった数十年で、隠し部屋があったことも、それがどういうふうに使われていたかも、本当のところをわかる人がもう誰一人いないくらい、なにもかもが急速に風化してしまった。
ところで、ニシン漁については、もうひとつ神恵内村周辺には見逃せないものがある。
それは「袋澗(ふくろま)」といって、いったい何かというと、ニシン漁が盛んだったころに作られた、海に作ったニシンの生簀(貯蔵プール)である。
積丹半島の神恵内村から泊村にかけての海岸線には、この袋澗の遺構が比較的よい状態でのこっているのが見られるとあらかじめ調べてあった。お昼を食べたお寿司屋さんで、詳しい場所を聞いて翌朝行ってみる。
この旅のハイライト、袋澗コレクション
ときめいていただけましたでしょうか。
石を積んだ堅牢なつくりで、かつては海岸線沿いに無数に点在していた。各網元の個人漁港としての役割もしていて、取れすぎたり、時化で港に揚げられなかったりしたときにニシンをここに貯蔵しておいた。
ニシンは網の袋にいれたまま沈めておいたらしく、人が袋を渡って歩けるくらいギッシリだったそうだ。因幡の白ウサギみたいじゃないか。
風と波の音ばかりがするこの場所に、かつてはヤン衆(雇いの漁夫さんたち)のかけごえがひびいていたなんて、夢のようだ。
近くには煉瓦積みの煙突や洋館が廃屋になって残っていて、当時の景気がしのばれるのだが、やはりここも、全く人気がない。天気がいい。
煙突のそばで拾った印判のかけら。
近くの道の駅で、ホタテを買って実家に送る。
今は神恵内産のがないから、こんど入ってきたやつ送るから。一枚130円。20枚たのんだ。
そして、旅館に行く前に、昨日以来会う人会う人にすすめられた村内の温泉に入りに行った。
お湯はしょっぱくて、タオルが染まるくらい茶色い。
おばあさんが2人、話しているのをお湯につかりながら聞いていた。
「あー、帰ってゆうはんつくりたくねえ。あんたどうする?つくんの?」
「つくんねえ。きのう豚汁つくったもん」
「あれ!あたしもつくったよ、豚汁こないだ。でもさ、こういうのはわがままってのかね?どうおもう?」
「んだねえ」
別に書くような会話でもなかった。
でも、この2人は長い付き合いなんだろうな、もしかして少女のときからかな、と思わせる親密さと甘えがあって、いつまでも聞いていたい気持ちになった。
お風呂を出て、フルーツ牛乳を飲みながら(すごくまずい。今後は雰囲気に流されてはいけない。)オットがでるのを待っていると、さきほどのおばあさん2人が出てきて、それぞれ牛乳を買って飲んだ。正しい選択だ。
そして、「ゆうはんつくりたくねえ」ほうのおばあさんが受付の人と話しはじめたのでまた聞く。
「明日っから4時半集合だってよ。つぎは○○だ(←魚の名前、忘れた)。電話回ってきたもん。いやだよー。4時半たら3時起きだもんお弁当こさえて送り出してさ。」
と言っていたので家族が漁に出るらしかった。
そうか、漁師さんは一年のうち次々と乗る船を変えて、いろんな漁に出るのだな。
おばあさんたちのおとうさんやおじいさんは、ニシン漁をしていただろうか。ニシンが来なくなっても、人生はつづくんだから。
で、書くの忘れていた運転の成果ですが、市街でないところではがんばってけっこう運転をした。100キロくらい走っても信号は2つくらいしかない。
車とは便利なもので、いろんなところに行けるけど、急に止まれないのでいろんなものを見逃してしまう。
北海道の海は漂着物が多そうだ。こういう時間がほとんど取れず無念(しごとなので文句はいえない)
by はらぷ
※「なんかすごい。」は、毎月第3木曜の更新です。はらぷさんのブログはこちら。
※はらぷさんが、お祖父さんの作ったものをアップするTwitterのアカウントはこちら。
ミカス
別に書くような会話でもないものが、意外と胸にきたりしますよね。
「ゆうはんつくりたくねえ」という会話の内容だけでなく、そういう会話をするおばあさんたちがいて、それを湯船の中で聞くはらぷさんがいる光景(想像だけど)が胸に沁みるというか。
とはいえ、私もゆうはんつくりたくねえ。
だから「こういうのはわがままってのかね?」でちょっと泣きそうになりました。
はらぷ Post author
ミカスさん、こんにちは!
先日はお会いできてほんとにほんとに嬉しかったです。
わたしも、帰ってから、思い出されるのはあの会話なのです。
お風呂にはおばあさんたちと私しかいなくて、お湯のざあざあ流れる音とおばあさんたちの会話を、おんなじ湯船につかりながら、だまって聞いていました。
「こういうのはわがままってのかね?」
って、なんだかおばあさんの人生が凝縮されているようですよね。
このひとは、何十年もゆうはんつくってきて、今日だって帰ったらだまってゆうはん作るんだろうなって。
そして、それにたいしてもうひとりのおばあさんは、「んだねえ」って、全然答えていない(笑)
否定も肯定もしない、自分の意見も言わない、まるごと聞いてるだけの「んだねえ」ってことばは、やさしいなあと思いました。
たぶんほんとにぜんぜん聞いてないだけだし、言ったほうもすぐ忘れると思うけど(笑)
考えてみると、わたしは、おばあさんになったときにこうやって一緒にお風呂にいける近所のともだちがいないから、ちょっとうらやましいです。
匿名
「袋澗」初めて存在を知りました。石積みの遺構なかなかいいですねえ。
ニシン漁といえば、「ジャコ萬と鉄」という谷口仙吉監督の映画が思い出されます。
日本全国から出稼ぎの男達がニシン漁にやってきて、因縁のある男が危うく暴動を起こしかけたり、、、この辺りが舞台だったのかしら。アイヌの娘とか「大学」というあだ名の大学生とか、脇役も面白かったです。
そういや京都に「ニシンそば」って名物があるけど、あれもここから直で運ばれていた名残なのかな。
数十年の乱獲で町のありようがすっかり変わってしまうとは、本当に栄枯盛衰を感じますね。
はらぷ Post author
匿名さん、こんにちは!
って、貴女がどなたなのかわたしは知っています。
こんなマニアックなコメント書いてくるひと他にいないから…。
ニシン漁といえば、ってどんだけ引き出し持っているんでしょうか(笑)
「ジャコ萬と鉄」!なんだそれは!と思って検索してみました。
カムイ岬が舞台なんですね。まさに積丹半島じゃありませんか。
こんな映画があったとは知りませんでした。
ネットで一週間レンタルができたので、さっそくダウンロードしてみた。
しかし、もう一度いただいたコメントを読んでいたら、ん?谷口仙吉?
わたしがダウンロードしたのは深作欣二が監督だったような…。
調べてみたら、谷口版は1949年、深作版は同じ黒沢脚本だけれど1964年のリメイクなのですね。
谷口版は今は流通していなくて、幻の作品となっていると書いてありました。
三船敏郎、月形龍之介、清川虹子…おお…いつかリバイバル上映などで観られる日がきますように。
ともあれ、深作版「ジャコ萬と鉄」。(高倉)健さん主演。楽しみです!(明日観る)
「ニシンそば」と北海道の関係、そのとおりです。
あんたすごいよ…。
海から遠い京都でなにゆえニシンそば、そのカラクリはやはり北前船で、江差から運ばれてきてたそうです。
江差にも名物ニシンそばがあるらしい。おもしろいなあ。
江差、上ノ国、松前、このあたりも一度旅してみたいところです。
江差線が廃線になったことが無念でなりません。