晶子の生きた道
先日届いた姉からのラインには、
「元気?今日はおばあちゃんの命日だね、コーヒーゼリーを作りました。」
と書いてあった。
7月12日、そうだった。1993年、記録的な冷夏の年だ。もう30年にもなるのか。
30年!時が経つのも早いが、姉がそれを毎年思い出すのもすごい。
命日とコーヒーゼリーの因果がにわかに結び付かなくて戸惑う。姉がなにかっていうと「おばあちゃんってコーヒーゼリー好きだったよね」と言うたびに、そうだったっけかあと思うのだ。わたしはずいぶんおばあちゃんっ子だった自覚があるのに、祖母の好物を覚えていない。
この「おばあちゃん」というのは、父方の祖母、晶子(あきこ)のことだ。
1923(大正12)年、群馬県高崎生まれ。5人姉弟の2番目で、実家は米問屋を営んでいたが、父親が株か何かに手を出して身代が傾いた。
晶子の父親にはいわゆる「2号さん」がいて、晶子らの母親が亡くなると、彼女が後添いで家に入った。10代の子の「母」となるにはいささか歳の若すぎた後妻はなかなかきつい性格だったらしく、姉弟はだいぶ苦労した。とくに、まだ母が恋しい年頃だった下の弟たちは、いまでもうらみに思っていて、ぜんぜん世話をしやしないよ、と祖母はよく言っていたものである。結局女はなんだかんだで許してしまうもんなんだ。男はだめだね、いつまでも根に持って。
傾きかけた家であっても、姉と晶子は女学校を出、弟ふたりと末の妹は大学までいった。そして太平洋戦争が長引く中、一家で群馬に疎開してきていた栄夫と見合い結婚。ここでも、晶子は「女親」に苦労させられることになる。栄夫の母は、わりに裕福な農家の娘で、質実剛健、厳格な家風の元で育ち、武家の娘のような厳しさがあった。その姑の目に、商家の出の晶子は甘ったれたお嬢さんに見えたらしい。おれなんかにはやさしいおばあちゃんだったけどさ、だいぶきつく当たられたらしいよ、と父親から聞いたことがある。わたしから見れば、祖母もよほどきつい女で、常々「にんげんは横になってああ、楽だ、と思うくらい辛いときでないと休むべきではない」などと公言していたのだが、それも姑の受け売りだったのかもしれない。
元来の負けず嫌いと姑のしごき(?)が功を奏し、たくましく成長した晶子は、その後立派に「きつい姑」として頭角をあらわしたが、戦後生まれのヒッピー娘「九州の山猿」(わたしの母親)には半分くらいしか通じなかった。
晶子はまた、ずいぶん教育熱心なほうだったが、二人の息子はどういうわけか芸術方面に進んでしまい、それぞれ美術畑と音楽畑の妻を迎えた。当然子どもの教育方針も自由奔放系、というわけで、晶子はそれが不満であった。
そこで、孫たちをつかまえては、ことあるごとに「T高(学区内で一番の都立高校)へ入れ、T高へ入れ」と呪文のようにふきこむ作戦にでた。一緒にお風呂に入るたび、どこかに出かけるたび、「○ちゃんは頭がいい」「T高に入ればなんでも買ってやる」と囁き続けた結果、全員一度はすっかりその気になったが、現実問題姉もわたしもそこまでの学力はなく、祖母も見切りをつけたか深追いはしなかった。結局のところ、どの高校に受かっても涙をためて大喜びしていたので、情に篤いひとなのである。
しかし祖母が他界した一年後、一番下の妹が、その刷り込みを真に受けてなんの迷いもなくT高に合格。今でも「今考えるとあれは洗脳だった。上のふたりに望みがないので(言い方!)、ぜんぶ期待がわたしにきたんだ」と言っている。もし祖母が生きていたら、「それごらん!」とさぞや鼻高々だったことだろう。
祖母は、ほんとうは大学に行きたかっただろうか。下の弟ふたりが、おそらく男子だからという理由で大学に行き、一番下の妹も、その数年が時代の変わり目だったのか、経済的な理由でか、進学したことを、うらやましく思ったことがあったかもしれない。
女だって馬鹿にされてたらいけない、ということをよく言っていた。テレビに出演する聡明な女性たちのことが好きだった一方、孫が政治や社会問題に興味を持つようなそぶりがあると、賢しらに、と毛嫌いするようなところもあった。それでも、選挙の時にはきちんとした格好をして、欠かさず投票に出かけていた。祖母は、どの政党に入れるかというようなことを決して子どもたちに話さなかったけれど、誰に一票を投じていたのだろう。
祖母が今も生きていたら、毎日朝ドラを楽しみにしていたから、きっと今の「虎に翼」も見ていただろう。わたしが今いるところでは朝ドラが見られないので、Twitterでつぶやかれる皆のコメントを追っては、見たいなあ!と思いを募らせている。
寅子のモデルとなった三淵嘉子さんは、晶子より9つ年上の1914年生まれ。晶子の目には、寅子はどんなふうに映ったのかな、共感、誇り、憧れ、エール、闘志、焦燥、苛立ち、嫉妬、嫌悪、悲しみ…
そして今回の都知事選、晶子だったら誰を応援しただろう。わたしは、たとえば蓮舫氏を熱烈に応援している祖母も、毛嫌いしている祖母も、どちらも同じくらい想像できる。「女だからって馬鹿にされてたらいけない」、そうつよく思う祖母の中に、いわく理性で整理し難い混沌とした気持ちがあって、それがひとりのなかで渦巻いている。にんげんってほんとうに複雑なんだ。
溺愛されていた孫の目からみても、祖母はだいぶどうかと思うところの多い人だったが、たとえば毛嫌いしている相手であっても、その人が道で泥礫を投げられていたら、飛んでって立たせ、風呂に入れるような人だった。そして飯を食わせた結果、突然熱烈な応援者になりかねないタイプである。重ねていうがどうかと思う。でも、何かの折に、こんなとき祖母はどうしたかな、と考えるときがある。正しい答えを求めてではない。
久しぶりに祖母のことをたくさん考えたのは、7月になってもカーディガンを手放せない、雨ばかり降るこちらの夏が、あの年の冷夏を思い出させるからかもしれない。そうでもないか。
By はらぷ
◆コメントへのお返事◆
Sakiさま
先月の投稿時にお返事をかけなくてごめんなさい!
嬉しいコメントありがとうございます。
ほんとうに、ここをケルトの人たちが行き来していたんだなあ、そして同じように風景を眺めたりしたんだろうか、とその時代と時空がつながるような不思議な感覚に襲われました。
似たような気持ちをどこかで、と思ったら、平泉でも同じようなことを思った記憶が。ここが昔は、この世の栄華を誇ってにぎわっていたんだなあ、その後の移り変わりを、この風景はずっと見てきたんだなあ、というような。妄想に果てなし!(笑)