引っ越しました(後編)
さて、引っ越し時期は確定した。次は今住んでいる賃貸の解約である。
この家は、内見こそ不動産屋さんが仲介してくれたが、その後は大家さんと直接やりとりするタイプの物件だった。
オットが大家さんにメールをしたのが12月に入ってから、引っ越しは1月早々だけれど、1月いっぱいまでの家賃は払いますと伝えた。
大家さんからはさっそく、不動産屋が写真を撮りにいってもいい?と連絡が来た。
写真撮影の日、前もってずいぶん掃除をしたつもりだ。古い家だけにいろいろちいさな問題はあったけれど、快適に過ごさせてもらって、この通りのこともすっかり好きになった。きれいに写真をとってもらって、いい人に借りられるといい。
約束した時間にあらわれた女性は、家の中をひととおり見て、「素敵ね」といいながら各部屋の写真を撮って帰っていった。思ったより反応がうすいのがやや気にかかる。きれいに暮らしているつもりだったし、賃貸物件としてサイトにあげて遜色ない写真になるはずである。もうちょっと熱意をこめてほめてもよいのではないか。
そしてその数日後、大家さんからメールが届いた。
そこには、不動産屋からの報告によると、と前置きしたうえで、ここが汚い、ここに傷がある、2年前にかしだしたときはパーフェクトな状態だったのに、とさまざまな瑕疵が連ねてあった。
壁に絵がかかっているけれど、傷をつけていないか。キッチンの戸棚にフライパンが掛けてあるけれど、メタル汚れが付いているのでは、庭の鋪装のすきまの雑草。
細けえ…。
くわえて、「家がねこのおしっこくさい」、そしてあろうことか、「猫がいるなんてことは聞いてなかった」と書いてあったのである。
びっくり仰天とはこのことだ。
猫を飼ってもいいかどうかは、住む家を探すうえでの最重要条件だったので、オットが内見を申し込む際には必ず念押しして確認していたはずなのに。
そして家が「おしっこくさい」とは…。うちの猫らは粗相をしたことはないし、そんなはずはないと思いたい。しかし、猫を飼っていない人には感じる匂いがしみついていないとはいいきれない。

濡れ衣です!!
くっそー、あの反応の薄さはこの伏線だったのか。あたりまえだが、ただ写真を撮りに来たねえちゃんじゃなかったわけだ。あの短時間で、なかなかの千里眼だぜ。
オットはそのひとつひとつにていねいに返事をして、猫を飼うことについては、仲介してくれた不動産屋に必ず確認したはずなので、知らなかったと聞いてこちらも心底びっくりだ、猫のおしっこの匂いも、もしかして猫のトイレから匂ったのかもしれないが、家についた匂いではないと思う、と書いた。
しかし大家さんから帰ってきた文面は、こうだった。
「猫を飼うって知っていたらペットデポジット(敷金)を払ってもらうべきだったし、ねこのおしっこのせいでカーペットを交換しなければならない」(塩)
こりゃあ、もしかして難癖じゃないかい?暗に、デポジットは返さないよ、と言っているのではないだろうか。
これまでは、「最高のテナントだわ」とかなんとか言っていたのに、なんという変わりようだ。
オットは注意深く、「カーペットは元々古かったのでどちらにせよ替え時と思うし、おしっこの匂いはしないと思うけれど、もともとカーペットのクリーニングは退去前に頼もうと思っていたので、その分の代金を交換代にあてることにはやぶさかでない」と返事を書いた。
日本でも、退去時には原状回復義務があるが、イギリスも同じで、賃貸契約書にその旨が記載されている。そして、こちらではEnd of Tenancy Cleaningといって、退去時に業者に頼んでクリーニングをしてもらうのも一般的だ。
でも、それは必須というわけではない。現在の法律では、賃貸契約書に「プロの業者に清掃を依頼しなければならない」と書くことは違法になっている。なので、自分たちできれいにできるならそうしてもいいのである。
わたしたちは家を見渡して、2年弱の生活で、これといって自分たちでなんとかできない汚れは見当たらないと判断し、自力でクリーニングをすることにした。さいわい、わたしはフルタイムで働いていないので時間もあるし。
しかし、思えばこれが間違いのもとだったのだ。この時点で、この大家はてごわいぞ、と判断し、プロに任せるべきだった。
窓、戸棚や引き出し、家中のスカーティングボード(幅木)、天井の埃、バスルームに台所。裏庭も、隣家から越境してきていた茂みをすべて払い、壁の汚れも舗装のすきまもきれいにして、大家さんのチェックの日に臨んだ。
じっさい、そうとうきれいにしたつもりだ。日本でも今まで何度か賃貸物件に住んだが、いつもこうやって敷金は全額返金されてきていた。入居してきた時ときよりもどうかするときれいである。どうだ、コンマリ発祥の国、日本の掃除のレベルを見るがいい!

気持ちとエプロンはプロ
はじめて出会う大家さんは、50代くらいの女の人で、ジーンズを履いて、真っ赤な口紅をしていた。ちょっと、「ハウルの動く城」の荒地の魔女に似ている。よくしゃべる気さくな人で、一緒に見て回りながら、家の状態に満足しているように見えた。カーペットや壁紙も、「何年か毎には換えなきゃね、替え時よ」と言って、こちらも、1月中に業者が入って作業するのに鍵の開け閉めをかってで、退去時チェックは友好的なものだった。
わたしは、「やっぱり会ってみたほうがよかったねえ」とすっかりほだされて、肩の荷が降りた気持ちになった。しかしオットは「うーん、まだ油断できない気がする」と懐疑的で、わたしが「不動産屋からの報告で不安になったけど、実際見てみたら大丈夫だったってことじゃない?」と言っても「そうだといいけど」と慎重にしていた。
そしてお察しと思いますが、オットの不安は的中した。
その週末、「もう一度天気のいい日に家を見てみたんだけど」と大家さんからきたメールには、またもや微に入り細に入って、掃除の出来に対し「アンハッピー」であることが書かれていたのであった。
公平にいうと、いくつかの点は、わたしが完全に見落としていた箇所だった。たとえば、キッチンのスポットライトの埃、洗濯機のトレー。
しかし、大家さんが「すごく汚い」と書いてよこしたコンロやオーブン周りのこげつきは、明らかに引っ越した当初からあったものだ。だって、わたし、きれいにしようとして落とせなかった記憶あるもんね。
それでも、油汚れは完全に落として、「汚れ」はない状態にまでしていたのに。
メールには、「この状態では新しく賃貸に出せない。貸す前にはプロに頼んで「スポットレス」な状態だったのに。」とあって、さらにもう一度最終チェックをする前に「賃貸契約書に書いてあるように、オーブンのプロフェッショナルクーニングをすることをおすすめしたい」と結ばれていた。

物言いがついたコンロの一例
なにおー。わたしは怒りにうちふるえた。メールが届いたのは夜おそくだったので、わたしたちはもうベッドにいて、「むかついて眠れない!!」とぶんぶんに怒るわたしにオットは「ごめん、明日伝えればよかった」と謝るはめになった。
自分の甘っちょろさ加減がうらめしい。うっかりほだされてしまったではないか。
しかも、自分の掃除の出来に自信満々で、せいせいした気持ちでいたことがまた情けない。ぐうの根も出ないようにきれいにしたつもりだったのに!(見落としてたくせに)
翌日、わたしは猛然と賃貸関連の法律を調べはじめた。数年前に法改正が行われて、プロフェッショナルクリーニングを退去時の条件にすることは違法になっているはずだ。借り手は、家の状態を入居時と同程度にまで戻すことが求められるが、リーズナブルな経年上の劣化は考慮されて然るべきである。
しかし、法律の原文とその解釈にあたってみると、どの程度のきれいさが妥当なのかは、じつにあいまいなのだった。つまり、貸出時にプロの業者による清掃が入っていた場合、「プロを雇え」と要求ことは違法になるが、「プロ並み」のレベルを求めることは必ずしも違法ではない。なんだそれは。借り手保護を装った罠かなんか?
賃貸契約におけるトラブルの多くは、この解釈のちがいによって泥沼化しているのだ。
日本だと最近では、普通に暮らしていて退去時に畳の交換や壁紙の張り替えで敷金が取られるということは少なくなってきている。そして、部屋をからっぽに、きれいにして出ることは求められても、次の入居者のためにピカピカにするのは、大家さんのつとめである。
でもイギリスでは、退去者は次のテナントが入居できる状態にまで家をきれいにする、というのが常識なのか?
とはいえ、念のためオットと賃貸契約書を読み直してみたが、やっぱり「プロのクリーニングをすること」とは書いていない。大家さんの法律の知識が更新されていないのだろうか?
でもそこではたと気がついた。大家さんは、プロに頼むことを「おすすめする」とは書いているが、「頼まなければならない」とは書いていない。つまり、「頼むか頼まないかはあなたしだいですが、最終チェックの際に掃除が足りていないということになれば、デポジットからお金が引かれることになる、それがいやならプロに頼むことをおすすめしますよ」と言っているわけで、こりゃあなんか、わかって言ってる気配が濃厚である。さすが長年大家やってないぜ。
すっかり戦闘モードに入ったわたしは、入居時の「スポットレス」ではなかった状態を詳細に記し、リーガルアドバイスを受けるつもりがあることを匂わせる返事を送って牽制しろと主張し、事を荒立てたくないオットと大げんかになった。
オットの言い分としては、こじれてカーペット代をフルで請求されたり、内緒で猫を飼っていたなどと訴えられたりするリスクを考えると、オーブンクリーニングの数十ポンドの出費でことが済むなら安いものだ、というのである。
理屈はわかる。しかし、正しくない!正義はどこにあるのだ。
そして、いっしょうけんめい掃除をしたにもかかわらず「すごく汚い」と言われたわたしの気持ちの持っていきどころは!!くやしい!
要は結局そこである。
最終的に、矢面に立つのはオットであるということをふまえ、わたしは折れた。
これが日本で、日本語でのやりとりだったら、わたしが多少のジャブをかまして相手の出方をみただろう。この国で、メールで返事をするときの微妙な匙かげんなど、自分でコントロールできないことがほんとうにもどかしい。それで、よけいにいらいらしてしまう。
で、結局オーブンだけはプロにお願いすることになったのだが、話はそこで終わりではなかった。
「End of Tenancy Cleaning」をうたっている業者に連絡してみたところ、すぐに来てくれることになったのだが、当日現れたのは、スプレー缶一個片手に持ったおじさんだった。のんしゃらんとしたおじさんは、わたしがことの経緯を説明すると、はははと笑って、「わたしもプロってわけじゃないよ、ただ、掃除が得意ってだけだ」とオーブンを覗き込み、「今まで掃除してきた中で一番きれいなオーブンだ」と言った。これ以上きれいにできるかわからないけど、まあやってみるよ。
プロじゃないんかい!不安だ…。そのスプレー、わたしが使ったのとほぼおんなじやつじゃない?
そして案の定、おじさんは肝心のこげつきによる変色部分をそのままに、機嫌よく帰っていった。わたしがきっちり拭き上げた表面に、あらたな拭き筋を残して。
こういうとき、どうすりゃいいんだ。金返せというべきなのか。
その夜、わたしからその報告を聞いたオットは、深くためいきをついて、他の業者に依頼をしていた。今度こそ、オーブンクリーニング専門の業者を選んで(ちょっと高い)
その結果、当日立ち会ったオットによると、なんか知らんがものすごい強い薬剤で、あっというまにピッカピカのピカにしていったらしい。
最初からそうすればよかった。オットの全身は明らかにそう言っていた。
その後も、ここが拭いてない、ここが不十分、とちいさな要求があり、そのつど雑巾片手にでかけていって(徒歩3分だけど)、結局デポジットは全額返ってきた。
オーブンクリーニング代2つ合わせて数十ポンド、カーペット交換費用の一部として、クリーニングにかかるはずだった金額約100ポンド、これで済んだのだから、まあよかったのかもしれない。
どんだけ重箱!と思った要求も、一度きり出会った大家さんの様子からすると、脚立にのぼって掃除をしたり、かがんで何か作業したりするのはむずかしいだろう。階段をのぼるだけでもすごく息が切れていたし。
そういうちょっとした仕事のためだけに来てくれる業者さんはそう見つからない。そうなると、退去者になるたけやってもらうというのがとるべき選択なんだろう。彼女が金銭のからむ相手ではなくご近所さんだったら、とくに思うことなく、あ、わたしやるよー、と手伝っていたにちがいないし、わりとすぐに喉元すぎるタイプなので、さいきんはそういう気持ちだ。といいながら、長々と書いてすみません。

おまけ*壁紙の張り替えで古い壁がむきだしになり、建設当時の落書きが出てきた。

J.Lambert, Paperhanger York, 12 July 1901
Byはらぷ