【月刊★切実本屋】VOL.43 確信を持って、凄い。
去年の秋と先月、NHKBSと地上波で放送された山口百恵のラストコンサートに気持ちを揺さぶられた。
私はデビュー直後から引退まで、ずっと百恵ちゃんのファンだった。かなりの。でも、彼女の引退の頃の自分は、働きながら学生もやっているという人生の超繁忙期だったので、引退フィーバーにも百恵ちゃんロスにもじっくり浸ることができなかった。
その残尿感(下品でスミマセン)を取り戻そうとするかのように、結婚後の彼女が自発的に登場した数少ない媒体である、女性誌『Free』(藤原新也が「三浦百恵」さんを撮ってインタビューした。当時は藤原新也に傾倒していたので狂喜乱舞した)と写真週刊誌『Emma』(エッセイを連載した。日航機の御巣鷹山墜落事故の頃。すぐにこの雑誌は廃刊になって当然、連載もすぐ終わった)はもれなくチェックした。
特に『Free』は何度も何度も読んだ。
まだ子どものいなかった彼女が、当時住んでいた高輪のマンションから毎日鳥を見ていること、「飲み会に行ったが誰も自分を特別扱いしないことが新鮮だった」という、元「山口百恵」以外が口にしたらちょっと顰蹙を買いそうなコメント、などは今でもよく覚えている。
引退後もマスコミに追い回され続けた彼女とその家族。夫がその月日を書いて出版したのは1999年のことで、この時点で引退から20年近く経っている。その『被写体』も読んで、この夫婦に思いを馳せた。マスコミの暴走・狂乱と簡単には片づけられない、自分にもある「百恵ちゃん見たさ」に複雑な気持ちになったりした。
そして、さらに月日は流れ、その倍の40年が経過した。短くない年月だ。2月29日生まれですら10歳になる(たとえのチョイスが完全に間違っている)。
さすがに、自分の百恵ちゃんに対する気持ちは凪いでいると思っていた。そりゃあ、国立で働いていたことのある知人が「そのへんでふつうに見かけてたよ。遠くからでも『あ、百恵さんだ』とすぐわかるんだよね」と言ったときは興奮したし、youtubeで思い出したように動画を見たりはするけれど。
それでも、「昔、けっこうファンだったんだよね」ぐらいに落ち着いているのかと思っていたのだ。
でも今回、ラストコンサートを見たらそうじゃないことがわかった。
今見ても、いや、今見るからこそわかる凄さが満載のコンサートだった。引退という非常事態の「火事場の馬鹿力」はあるにせよ、彼女は桁違いだった。
曲ごとに「その世界」にいる彼女には、演技とか憑依というより、その都度その都度、腹を括っている本人の強い意志を感じた。歌もMCも動きも、今自分がなにをすべきか、瞬時に判断し、実行する力を、覚悟の量で獲得した人なのだと思った。これって凄すぎる。
地上波での放送の翌日、仕事先である中学校の図書室の文庫の棚の数冊のさくらももこの(←「の」が続き過ぎ!)エッセイに目がとまった。ふだんなら流したと思うが、昨日の今日で「山口百恵脳」状態だったので「そういえば、さくらももこは百恵ちゃんファンを公言してたな。アニメのちびまる子ちゃんにも百恵ちゃんが登場して、その声を清水ミチコさんがやってたな」まで一気に思い起こし『まる子だった』を手にとっていた。
いまさらだが、やっぱりさくらももこはエッセイの名手だと思った。今回、四半世紀ぶりぐらいに彼女のエッセイを読んで、平易な言葉の威力、みたいなものをまざまざと感じた。
人は、特にブンガク好きを自称する人は、なにを血眼になって、小難しい言葉で唯一無二の表現をしようとするのか。日常使っている言葉でそれはできないというのか。やろうとしていないだけじゃないのか。
『まる子だった』の「休みたがり屋」という章の中の「学校に行っていたら算数や体育やその他つまらない企画が目白押しだ。オナラのひとつもできやしない。どう考えても家の勝ちだ。」に勝る、怠惰な小3女子の学校に対するドンピシャな心情があるだろうか。えっ、どうなんだ?と聞きたい。
ちびまる子ちゃんの存在が、あまりに、あまりにもデカくなり過ぎて、いくらその後の(マンガ抜きの)エッセイが立て続けにベストセラーになろうと、「あのちびまる子ちゃんの」という冠詞が常に彼女の表現活動について回ったことは想像に難くない。それを本人はどう思っていたのだろう。
ちびまる子ちゃんの世界観が彼女のhomeであることは、そりゃあ間違いないだろうが、シュールなマンガ(『神々の力』とか)同様、平易な言葉で綴った斬新な文章をもっと読んでみたかった。彼女が老いについて綴ったら、「令和の佐藤愛子!」と膝を打ったであろう自分の姿が目に浮かぶ。
さくらももこさんのいない世界を生きているから、ことさらそう思うのだということはわかっている。人はなんと、もうアップデートされないとわかっている存在に感情移入しセンチメンタルになるイキモノであろうか。それは、変わらないという安心感とセットなのだろう。ゆえに、美化したり下駄を履かせたりも易々としてしまいがちだ。
でも、山口百恵とさくらももこには少なくても下駄の必要性はない。それだけはわかる。そこが凄さだ。
月亭つまみ
爽子
つまみさん!
今日のは、ことさら面白く、読み返してしまったよー。
さくらももこさんのエッセイ、大好きです。
百恵ちゃんも、好きだったな。
ねえ、好きだったよね。
うんうん
都忘れ
つまみさん、こんにちは♪
※人はなんと、もうアップデートされないとわかっている存在に感情移入しセンチメンタルになるイキモノであろうか。
この部分を読んで、森瑤子さんを思い出しました。
一時期、小説や、エッセイをたくさん読みました。
検索してみたら、亡くなられたのが52歳!?めちゃくちゃ大人の女性だと思っていましたが、しっかり年下でした。(汗)
さくらももこさんの本は、以前、読んだことはあるのですが、ちびまる子ちゃんのイメージが強すぎて、ちょっとピンとこないところがありました。
でも、今だったら、また違う感覚で読めるかもしれないな~と思います。
森瑤子さんの本も、また読んでみたいな~。
その人が亡くなっても、作品が残っているということは、あらためてすごいことですね。
つまみ Post author
爽子さん、うれしい❤
ありがとうございます。
そうなの。
当時は理由なんて考えもせず、なんでだか、百恵ちゃん、好きだったよね。
つまみ Post author
都忘れさん、こんにちは。
森瑤子さん、作品はあまり読んでいませんが、そうですよね。
ヘンな言い方ですけど、誰よりも大人な女性のイメージでした。
50代前半で亡くなったのでしたか。
太地喜和子さんや安井かずみさんも、きっと意外に若かったんだろうなあ。
さくらももこさん、そうなんです、ちびまる子ちゃんのイメージが強すぎますよね。
本人も葛藤があったような気もして、でも、ちびまる子ちゃんあっての、という気持ちも大きかったようにも思えて、そのあたりを本当はイチバン書きたかった気がします。
確かに、亡くなっても作品が残っているってすごいですよね。ちょっと怖い気もしますが。