イギリス郵便事情

師走にはいって、玄関ポストにちらほらクリスマスカードが舞い込み始めた。
日本のお正月と同様に、こちらではクリスマスが郵便局のかきいれどきだ。
わたしたちも先日まとめてカードを投函したけれど、近所のポストは首元いっぱいまで郵便物がつまっていて、差し入れ口から封筒がこぼれおちそうになっていた。回収にサンタの袋が必要そうだ。
そして郵便局ではトナカイのヘアバンドをかぶった郵便局員さんが、じつにだるそうに長蛇の列をさばいていた。
ちなみにこちらでは、郵便局は大抵文房具やさんなどの一角にあって、町の支局は17:30までの営業なのだが、どんなに人が並んでいても、17:30になった瞬間に窓口が閉まる。なんというか非常にすがすがしい。
空振りに終わった人も、ちぇっという顔はしつつも、呪う対象は郵便局でなく運の悪い自分である(心の中でもたもたしている列の前の人をこっそり呪ってはいても)。残り時間と列の長さをみて、いちかばちか並ぶかあきらめるかは本人次第、時間を過ぎても働けというなんて、とんでもない、というのが共通認識らしい。
日本の年賀状とこちらのクリスマスカードのいちばん大きな違いは、届く時期である。
年賀状が元日から一斉に配達され始めるのに対して、クリスマスカードは12月の初めあたりから投函された順に届き始める。飾ったカードが少しずつ増えていくのを見ながらクリスマスを待つのは、それはそれでとてもよい。元旦の朝に、輪ゴムで束ねられた年賀状をポストに取りにいく楽しみと、どちらがいいかはちょっと甲乙つけがたい。
クリスマス当日の配達はなし。郵便屋さんもクリスマスはお休みだ。
思いがけない人からカードをもらって、しまった!と思うのはどちらの国でも同じである。
もうひとつの違いは、こちらではたいてい市販のカードを送り合うこと。
イギリスでは何かってえとカードを送り合う習慣があり、各種カードが常に大量に売られているのだが、クリスマスともなるとその勢いがさらに増してたいへんなことになる。人々はそれぞれ気に入ったカードを見つけてメッセージを添えて送るのだが、そのカード代ときたらぜんぜん馬鹿にならないので、大量に送り合うクリスマスには、お徳用の10枚入りセットなんかを買うことも多い(バラで買ってると、一枚4〜500円くらい平気でしちゃうのだ)
わたしたちは、Oxfamというチャリティ団体のセットカードが毎年わりとかわいいので、別のお店でずいぶん前に気に入って買っておいたカードと合わせて今年分とした。
年賀状の場合はハガキで手頃だし、多くの人がテンプレートの利用も含めて自分で作って送り合うのが、オリジナリティがあっていいなと思う。わたしも毎年じぶんでデザインして作っていたし、センスのよい友人からの年賀状が楽しみだった。
そうか、こっちでも自分でカードを作ったっていいんじゃないの。
近所の図書館ともだちPennyからも、今日カードが届いていた。家まで来てポストに入れてくれたらしい、どういうわけか2枚。
カードを書いて封したとこで、間違ったカードを使ったことに気づいたわけ、と書いてあった。宛名にかいたSUMAの文字が、わたしたちの名前の倍くらい大きくて笑う。
(Pennyはこの秋、数日留守にしたわたしたちの代わりにスマの世話をしてくれて、スマにたいしては一家言あるのである)

先日、That’s Danceのポッドキャストを後追いで聴いていたら、宅配便の話題が出てきて面白く聞いた。今でこそ置き配なんかもあるけれど、昔はご近所さんが預かってくれたりすることも多かったよね、という話。
それ、イギリスめっちゃあるやつ!
こちらにきて戸惑ったのは、荷物の配達に際して、時間帯指定のサービスがほぼないことだった。郵便小包にせよ、ネットで購入したものの配達にせよ、届く日を選べるシステムはあっても、たいていの場合配達時間は選べない。荷物の配達状況はわりとこまかく配達業者がメールを送ってきてくれるし、追跡も可能なのだが、その日が仕事だったり用事があったりしたら、知ったところでどうしようもない。どうしろっちゅうんじゃ。
日本で「午後7時以降」とかのスロットが選べたり、タッチの差で帰宅が遅れてもドライバーさんに電話ができたりする便利システムは、当たり前のものではなかったのだ。
して、不在の場合どうなるかというと、いくつかのパターンがある。
1 郵便受けにむりやりつっこむ(端っこだけ入ってぶら下がっている状態でも「入った」ことにされているケースあり)
2 玄関先に配達(放置)
3 再配達
4 近隣の家に配達
2はいわゆる置き配というやつだ。ドライバーさんが玄関先に置かれた荷物の写真を撮って配達完了の証拠とする。しかしうちみたいに道路に面してすぐ玄関ドア、のテラスハウスの場合、玄関前の鋪道に文字通りただ「置いて」あるので、配達というよりは「放置」といったほうがより状況に即している。「置いといたらなくなってもあたり前」が常識のイギリスで、この方法がまかり通っているのがいまひとつ解せないのだが、イギリス全土で普通なのだろうか。しかし、いまのところ荷物がなくなったことはない(運がよいだけか)
3の再配達は、ありがたいことなれど、次に配達される日に家にいられるとはかぎらない。
以前、日本から友人が小包を送ってくれたことがあるのだが、配達日に受け取れず、不在票を見ると、どういうわけか隣村の郵便局留めになっていて、局受け取り指定がされていた。
そこで不在票にのっていたサイトにアクセスして町の郵便局受け取りに変更したのだが、自動確認メールもちゃんと届いたにも関わらず、翌日再配達不発の不在票がふたたび入っており、町の郵便局からはなんの音沙汰もないままだった。数日後、直接郵便局に出向いて聞いてみると、荷物はまだ隣村の局にあるという。なぜなんだ。
係の人の説明によるとからくりはこうだった。
不在票には配達日の変更や受け取り方法の変更ができる旨書かれてあるが、じっさいには最初の配達で荷物を受け取れなかった場合、ただちに翌日の再配達が自動手配され、それが不発に終わるまでは、オンラインで配達変更の申請をしても受理されない。2度目の配達が不首尾となったあとに申請された変更申請のみがシステム上処理される。
それってどういう…?
脳が内容を処理しきれていないわたしを見て、郵便局員のお姉さんは「そういうことになってるわけ」と首をすくめた。
え、でも確認メール届いたけど?となおも聞くと「自動で送られちゃうから止めらんないのよ」と当然のように言うのだった。「最初と2度目の配達の間に申請されたのは、どっかにいっちゃってどこにも届かないの」
なんだか村上春樹の小説みたいな気持ちになってきた。
だがしかし、届いていないものはどうしようもない。
「そしたら、この郵便局に届くように変更してもらっていいですか」と聞くとお姉さんはそくざに
「それは無理。国際郵便の変更は郵便局ではできないの。なぜなら別の会社がやってるから。不在票にあるURLか電話番号でするのよ、あるいはHP。」
と断ってきた。理屈とからくりはわかったが不条理すぎる。
そしてここまで時間がかかったが、くだんの4である。
近所の家にかわりに配達。
この21世紀に、という気もするけれど、結局これが一番安全で確実な方法だったりする。安全、というのは一義的に「荷物の安全」という意味ではあるけれど。
配達時にその家が不在の場合、ドライバーさんは近隣の在宅の家を探し、荷物を預かってもらう、そしてその家の番号を不在票に書いて知らせる。
なので、必ずしも真隣の家とはかぎらない。向かいの家だったり、うっかりすると同じ通りのだいぶ離れた番号だったりすることもある。向こう三軒両隣プラスの世界。
ドライバーさんも、在宅の家を一軒一軒探さなきゃいけないわけだから大変だよ。だいたい地域によって担当ドライバーさんが決まっている場合も多いから、この家はわりといつも人がいる、とか見当つけているのかもなあ。
うちも出勤時間の都合上、午前中家にいることが多いので預かることも多い。おたがいさまだし、それで近所の人と顔見知りになったりもするのでわたしはこのシステムがけっこう好きだ。
でも、一度入っていた不在票に、「近所のDannって人の家に預けました」って書かれていたことがあり、
Dann…? ……誰!?
となった。
うちの隣は、右隣がパキスタン人のご夫婦、左隣がネパール出身のスバシュさんなので、Dannって感じじゃないけど、全員の名前知ってるわけじゃないしなあ。
結局2軒隣のおうちでDannに行き当たったので無事荷物は回収できたのだが、いくら小さな町でも通りの人の名前全部記憶するのは無理なので、ぜひ番号を書いてほしい。
フラットに住んでる一人暮らしの女の人とかだったら、ちょっと心配だなあと思う方法だけれど、イギリスに暮らしていて、たとえば隣に住んでいる人が、一見まともに見えるけれど実はやべえ奴(盗撮とかつきまといとかそういうやつ)だったりする心配というのは、日本よりも少ないような気がする。
こちらでは学生や若い人はシェアハウスで暮らしている人も多いので、みんながひとりひとり別々にワンルームに住んでいる日本との違いもあるのかもしれない。
相対的に考えたら、日本のほうがはるかに安全だとは思うけれど、気をつけるべき危険の種類が多少違うというか。
こちらでは、住んでいる通りや電話番号を人に教えるのにさほど警戒心がないように感じることがある。年齢や性別によっても感じ方はちがうだろうし、あくまでわたしの住んでいるあたりでは、という条件付きのはなしだけれど。
郵便のことを書いていたら、おかしな比較論になってしまった。
そして、ちょうど目に入ったニュース記事で、配達業ではたらく人のきびしい雇用状況のことを読んだ。お給料が、配達荷物ひとつにつきいくら、という出来高制になっており、その単価がものすごく安い、しかも会社によっては重い荷物が不当に小型手荷物として計算されていることがある、という内容だった。
Amazonの例を出すまでもなく、便利が当たり前、わたしたちに喜びをもたらしてくれる「お届け物」の裏側には、きびしい世界の現実がある。
今年も師走が暮れてゆく。11月からこっち、こちらは雨ばかり降っている。
2026年がどうか平和な一年となりますように。
今年一年、読んでくださった皆さま、ほんとにありがとうございました。

By はらぷ
















































































