50代、男のメガネは近視と乱視とお手元用 ~ 父とのやりとり。
父とのやりとり。
6月の母の誕生日に父が亡くなった。
夜が明けて2、3時間持ちこたえて、まるで母の誕生日まで頑張ってから亡くなったかのように思われた。80歳だった。年齢だけを見ると仕方がないかな、とも思うのだけれど、亡くなる半月前まで大型スクーターに母を乗せて、あちらこちらを運転して回っていたことを考えると、
少し早いな、というのが正直なところ。実は親子の会話などまったく皆無だった不肖の息子としては、なんだか申し訳ないことをしたという気持ちが今になってわいてくる。
亡くなる前日、僕が病室を訪ねると、父は痛みのために苦しんでいた。苦しんではいたが、意識はあり、かろうじて会話もできる状態だった。僕が顔を出すと、父はわざと視線を外し、ちょっと見なかった振りをした(ように見えた)。母が「誰や?誰が来たかわかるか?」と声をかけると、父はせいいっぱい声を振り絞って「誰もおらへん!」と答えた。
僕は笑ってしまった。僕が高校生の頃から、僕と父の会話はなくなり、僕は実家にも寄りつかなかった。そして、結婚して子どもができて、ときおり実家に顔を出すようになっても、うちの嫁と子どもたちが話すばかりで、僕はほとんど会話をしない。そんな状態が続いていたので、父は自分の余命がもうないからと言って、急に僕に話しかけたり、甘えたりすることをよしとはせずに、頑張って見て見ぬ振りをしたのだと思う。
しかし、さすがに医者から「覚悟してください」と言われていた時期だけあって、母が再度強く「ほら!ちゃんと見てみなさい!ほら!誰がおるの??!」と耳元で声を上げると、観念したように、そして、振り絞るように「まさとや!」と声に出して、僕を一瞬見て、また目をそらしたのだった。
その様子は、病気になったからと言って、息子に弱みは見せないぞ、というふうにも見えたし、もう最後かもしれないんだから、お前の方から寄って来い!とイラついているようにも見えた。
そして、父は、僕とのその会話を最後に話せなくなり、その翌日、母の誕生日の朝日が登る前に息を引き取った。医者が予定していたよりも一週間以上も早かったので、父が亡くなる瞬間は誰もそばにいなかった。
宿泊していたホテルに「容体が急変しました」と電話があったのは午前3時30分ごろ。慌ててチェックアウトをしてタクシーに乗り込んだ。僕は薄っすらと白んできた空をタクシーの窓から見上げながら、父との最期のやりとりを思い出していた。道を間違えて、遠回りしている運転手の後ろの座席で、少しイライラしながら「あのやりとりが最後なんて」と思ったのだけれど、だったらどんなやり取りや僕と父らしかったのか、と思案すると、はっきりとした情景が浮かんでこない。
それでも、いま80年という年月を生きてきた肉親が逝こうとする瞬間が近いと思うと、逡巡が続く。同じような情景が浮かんでは消えて、やっと「あれはあれで、僕と父の最後の場面にふさわしかったのかもしれない」と思えたあたりで、父が最期の時を過ごした病院に到着した。
父がいた階にエレベータが止まると、看護師の様子や母の様子で、なにも聞かなくても父が逝ってしまったことはすぐにわかった。そこから、父のいる病室まで、急に足が重くなった。さっき考えたことを思い出し、なんとなく父は僕のことを怒りながら逝ったのではないかと思ってしまっていた。そんな思いを秘めた死に顔を見るのは嫌だ。そう思うと、余計に足が重くなった。
少し涙ぐんでいる母に促されて、病室に入り、父の顔を見て驚いた。ここしばらく、実家に帰った時にも見たことがなかったような穏やかな顔がそこにあった。眠っているときにも、もっと神経質そうな表情だった父が、すっかりいろんなものから解き放たれたように、穏やかな顔をしていた。こんな父の顔をどこかで見たことがある、と僕はそう思った。小学生だった頃の夏休みだ。電鉄会社に勤めていた父の仕事が非番で、平日の昼間に一緒に昼寝をしたことがあった。あの時の顔だった。確か、父はあの時、こんな顔をして眠っていたような気がする。
そう思うと、なんだか僕もあの頃の顔をして、父を見送ってやらなければという思いにとらわれたのだが、どんな顔をすればいいのか、わからないのだった。
植松眞人(うえまつまさと) 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。 現在、オフィス★イサナのクリエイティブディレクター、東京・大阪のビジュアルアーツ専門学校で非常勤講師。ヨメと娘と息子と猫のマロンと東京神楽坂で暮らしてます。
★これまでの植松さんの記事は、こちらからどうぞ。
つまみ
今まさに医者から「覚悟してください」と言われる娘をやっていますが、父親は家族をかえりみず、30年近く全く会わない時間があったので、面会に行くたびにどんな顔をすればいいか、いまだに定まっていません。
こんな状況とはいえ自分の父親への負の感情は雲散霧消してはおらず、それも抱えながらの変動相場制の毎日ですが、今回の植松さんの文章を読んで、もし父親の最期の顔が穏やかだったら、自分はいろいろと後悔するだろう、と気づきました。
気づいたからといって、明日から父に急に、こってりと優しい娘をやるとも思えないわけですが、とりあえず今、昔の父親の、不機嫌じゃない表情を思い出そうとしてみています。
それがなにかの糸口になるかどうかは、これまたわかりません(笑)。
うえまつ
つまみさん
人の親のことなら、とやかく言えるんですが、自分の親のことになるとねえ。
ほんと、人間はややこしい。そして、アホでおもろいですね。
他人事だから言いますが、出来るだけそばにいてあげてください。