【エピソード29】戦争中、学校が病院になった。
さてさて、聞いた話を形に残すことを仕事にしている
「有限会社シリトリア」(→★)。
普通の人の、普通だけど、みんなに知ってほしい
エピソードをご紹介していきます。
今回は、アツコさんに聞いた戦争中の話です。アツコさんの通っていた小学校は戦争によって一部の教室が病院になったそうです。そこで出会った若い兵隊さんたちのことを、70年以上たった今もはっきりと覚えているとか。亡くなった人も、誰かの記憶の中で生き続けるのだなあと思いました。
●若い兵隊さんたちがいた
わたしの家の裏の高台に小学校があったが、戦争中はその一部が病院に早変わり。戦争で病気になったり、手足を銃弾で失ったりした人たちが15人あまりいた。15歳で特攻隊に志願した長兄より5歳くらい上だったが、皆若かった。病院といっても、設備は貧しく、今から見ればたいそう粗末なところだった。
わたしは長女だったので、下の妹たちと弟のお守り、母の手伝いとよく働いた。1歳の妹を背中におぶって学校に行くと、兵隊さんが皆、かわいいかわいいと抱っこしてくれたり、ベッドに寝かせてくれたりと、よくかわいがってくれた。
●こんな戦死もあった
今でも覚えているエピソードがある。
ある日、兵隊さんの一人が盲腸の手術を受けた。病院を移動させることになり、今のように車輪のついたベッドなどはないので、両脇に竹を通した布製の担架のようなものに乗せて運んだ。階段で運んでいた人の手がすべり、患者さんを落としてしまい、そのまま亡くなってしまったことがあった。同じ命でも戦争ではなく、そんな失敗で亡くなるなんてさぞ悔しかったことだろう。
●お風呂を使いにきた兵隊さん
病院には小さいお風呂があったが、歩けないほど重傷の患者さんだけが使っていた。リハビリ中の人や軽症の人は、近所の家に5、6人づつ週に2回か3回お風呂を使いにきた。1時間の間に位の上の人から入る。最下位の人はお風呂に付きっきりで薪を燃やし、背中を流しと忙しく働き、時間がなくなって自分は入れずに帰ることもあった。見ていてかわいそうに思ったが、時間に遅れると、夜、運動場に並ばされて往復ビンタを受けている音が家まで聞こえた。何てひどいことをするんだろうと思ったものだった。
●そして、戦争が終わった
終戦は12歳の夏。暑い日で、今日正午に天皇陛下のお話があるからと校庭に兵隊さん、近所の人たち、生徒と集まってラジオを聴いた。あまりよく意味は理解できなかったが、兵隊さんが皆泣いていたので、子どもたちは「日本は戦争に負けた」とわかり、今までいざという時のためと言って少しの米、缶詰、砂糖など大切にとっておいたものがもう食べられる、電気も黒い布をかぶせなくてよくなると思って、わたしはうれしかった。兵隊さんたちはお別れを言うこともなく、いつの間にか帰ってしまった。まだ幼かったので、住所を聞いておくことも頭になかった。
戦後、高度成長の時代、バブルの時代、平成とそれから長い長い時間が流れて、わたしは80歳を超えた。今になって、当時の兵隊さんたちの顔がさまざまな感慨とともに思い出される。
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