歯医者とわたし
オットが一足さきに本国に戻って4ヶ月。期限付きの日々を過ごしている。
この一年、やらなければならないことは、おもに家と家財道具をどうするか、移住のための英語試験、ビザの申請、ねこの渡航準備(ワクチン等)、そして、歯医者である。
前回歯医者に行ったのは、8年前。
2014年のわたしが、詳細にそのことを記していた。
「歯医者」(2004年5月27日 sproutおぼえがき)
その中に、わたしがどんなに歯医者がこわいかということが、じつに正確に描写されているので、よかったらお読みください。
歯医者に行くたびに書かずにいられないということについては、どうか許してもらいたい。
○
いまわたしが抱えている不具合は2つあって、ひとつは、右上の奥歯が物を食べるとうずくこと、もうひとつは、左下の親知らずの虫歯である。
8年前の日記を読みかえしてみると、前回も右上の奥歯のことで、意を決して歯医者にかかっていた。そして、もう致命的なことになっているにちがいないという予想に反して、小さな虫歯の治療と詰め物の交換で終わったのだった。
しかし今日、奥歯のうずきは当時よりも格段に増している。そちら側で噛むのをやめてしまうくらい。これは、前回見逃された何かが、8年の時を経て、ごまかしきれない事態になっているということに違いなかった。おそらく、内部の虫歯か、歯茎の腐敗。
また、親知らずについては、20年来放置している年代物だ。というのは、大昔にかかった歯医者が、虫歯があるけど親知らずだから、と言って、治療せずに何かを詰めたのである。
これは、いよいよ虫歯が痛み出したら、抜くのだと、そういうことなのだと思って生きてきた。
○
その親知らずが、先日ついに痛み出したのである。
これまでも、ときどき周りの歯茎が腫れて、いたむことはあった。でも、だましだまししていると、2日と待たずに腫れは引いて、元どおりになるのだった。ところが今回は、歯茎が腫れていないのに、鈍痛がして、歯の中心がつい、つい、と痛い。日常にさしつかえるほどではないが、頭を動かすタイミングで痛い。翌朝になっても痛い。
きたな、と思った。きたか…ついに…!?
○
もうせん、日本にいるあいだに、歯を治してもらわなければ、と思っていたのだ。もちろん、どこの国にだって歯医者はいる。しかし、未知の国の、未知の歯医者に、開ける口をわたしは持ち合わせていない。
そう思いながら、踏み出す勇気なく、漫然と時を浪費し、早、5月。
見たくない現実に目を背け、波乱の不気味な胎動を足下に感じながら安穏に日々を過ごす。
人類はなぜ同じ過ちを繰り返してやまないのか…!
○
8年前のわたしが今の心境をすでに書いていた。
さすがわたしだ。わたしのことをすごくよくわかってる。
○
青い顔をして、「歯医者…歯医者…」とつぶやくわたしに、職場の同僚が、行きつけのNという歯医者を教えてくれた。
なんでもその同僚は、診療椅子で体がビーン!となってしまって医者が困惑するほど歯医者が嫌いだったらしいのだが、そのN先生のおかげで恐怖を克服し、今では椅子の上でうとうとするほど余裕があるというのである。
「それって笑気ガスとかですか。」
と聞くと、「なにそれ。」と返ってきた。
さくらももこがエッセイに書いていた、吸引するとまるでアラビアの王様になったような心持ちになり、なんでもいらっしゃいという気持ちになったところでプシュッと麻酔を打たれるというディストピア的施術法について、わたしはかねてから強い興味を持っていたのだ。
(『たいのおかしら』収録)
なんだ違うのか。
でも、とにかくやさしくてていねいで安心できる先生らしい。おまけに、うちから電車で数駅のところにあるという。
「そこにいく」とわたしは即答した。この8年間に、万難を排して、以前お世話になっていた千葉先生のところまで、小一時間かけて行く気力が失われていたからである。
N駅の、N先生。電話をして予約すると、ちょっと痛みが軽減したような気がした。
○
当日、問診票の備考欄に「こわいです」と書いた。なにごとも最初がかんじんだ。
先生は、ぎくしゃくしながら椅子に座るわたしを見て、
「問診票に『こわいです』と、書いてありました。」と言った。丸くて、お月さまのような顔をした先生だった。
しかし、いかなやさしい先生でも、このたびは厳しい宣告をしなければならないだろう。
○
歯をチェックし、レントゲンをとると、先生は穏やかに告げた。
「上の奥歯には、虫歯も歯茎の問題もとくにありません」
○
虫歯が…ない…!?
○
そんなばかな。だって胃が悪くなりそうなくらい噛めないのに?
「しかし噛み合わせが相当深く、かなり歯に負担がかかっています。つまり、噛むときに相当ギリギリやっている。痛みはあるいはそのせいかもしれません。」
そして親知らずについては、
「親知らずといっても、ふつうに生えていればふつうの歯。この歯に関して言えばあえて抜く必要は感じません。」
と言われた。
ええええ……!わたし、この歯はいつか抜く時限爆弾なんだと思って生きてきたんですけど…!!
「たしかに何か詰めてあって、虫歯が多少あるようですが、いったん詰め物をとって、治療すればいいと思います。」
い、いままで放置してたのはなんだったのか…。
○
親知らずは、次回に治療することになった。奥歯の場合は、4時間くらい麻酔が切れないからと言われ、14時に予約した。わたしは、効いてくれれば、なんでもいい。
○
○
結局その日は、歯のクリーニングだけしてもらった。
だけ、というが、麻酔のかけようがないクリーニングは、痛くはないがとてもつらい。
着色汚れを取るのに、粉を吹き付けるので、と言われて、口のところだけ穴が空いている手術カバーのようなものを、顔にかけられる。こわい。こんなことはじめて。
口中で勢いよく噴射される「粉」は、ちょっと甘くてしょっぱい味がして、それが舌にかかると、味蕾が反応してしまう。
刺激に、舌が意に反してビクビクと震えるのが止められない。
そして、じわりと唾液が分泌される。
○
ああ、いや、感じたくないのに。
許してください、もう、かんべんして。
唾液が、でてしまう。
ああ、お願い、お願いだから、
どうぞ吸って、
後生だから吸ってください…!
○
歯医者で官能小説が書けるような気がしてきた。
○
○
後日同僚に、
「奥歯の麻酔、4時間とれないって!」と報告すると、
「N先生が4時間と言ったら、6時間効き続けるよ…。」と予言をもらう。
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かまうものか。
べつにそのまま、効きすぎて目覚めなくてもかまわない。
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byはらぷ
※「なんかすごい。」は、毎月第3木曜の更新です。
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