◆◇やっかみかもしれませんが…◆◇ 第55回 わたしは親孝行
夫の従弟が突然亡くなった。彼の母親(義母の妹)は、ダンナさんを早く亡くし、シングルマザーとして息子ふたりを育てた。その姿を見てきたせいか、とても親孝行だと、親戚内では評判の息子だった。我が家の義父が亡くなった折にも、告別式に参列できなかったから、と後日、母親をともないお線香をあげに来てくれた。そして、会うのは3回目ぐらいのわたしにも感じよく、自分が子どもの頃の、無口で一見怖そうだったけれど本当は優しかった義父(彼にとっては伯父さん)の思い出話をしてくれたのだった。彼はとても気遣い屋さんだった。
親が離婚したり、若くして亡くなったりして、片親(この言葉の冷酷無慈悲感!)になった子どもは、やっぱり無邪気ではいられないと、自分を鑑みても思う。事情はそれぞれあるのだから、両親がそろっていたって同じじゃないか‥という異見もあろうが、そんな正論をすぐ口にする輩は引っ込んでいてほしい。こっちだって百も承知で書いている。それでも、金銭的理由で進学を断念したり、進学先や就職先の種類を変えた子どもの割合は、片親の方が圧倒的に多いと思う。自分もそうだし、夫の従弟もそうだったのだ。
私の知る限り、見てきた限り、シングルで子育てする親はわかりやすく必死だ。わが子に肩身の狭い思いをさせたくない、他の子が易々と手に入れている(ように見える)物品や選択肢の幅やいろいろな意味での自由を、自分の子どもにも享受させてやりたいと強迫観念のように思っていたりする。ベタなイメージにも思えるが、ほとんどの場合、本当にそうだ。そして、それをいちばん知っているのは当の子どもたちなのだ。知っているからこそ、親の必死さは圧だし、親をそんな風にさせる自分に罪悪感を覚えたりもする。
要するに、世界はかなり窮屈だ。それがずっと続く。でも、まっただ中では意外とその意識はまだらだったりする。窮屈な反面、自分はそれに順応しているし、わりとちゃんとやれていると思っている。親孝行なのは、世間の「片親の子どもはこうあるべき」という轍にハマっているだけかもしれないのに、持って生まれた気質のつもりでいたりする。
大学に落ちて迷いなく浪人したり、大学を辞めたり、違う学校に入り直したり、休学して外国に行ったり‥という人を見ても、うらやましいとか自分もそうしたいなんてツユほども思わない。それは、身の丈を知っているからというより、たくさんの選択肢がある状況に自身を当てはめるということを思いつかないだけだったりする。
でも、選択肢の種類の多さや幅の広さを謳歌する同世代のことはうっすらやっかんでいる。憎んでいると言っていいかもしれない。親との軋轢を、まるで自慢げに語る同世代の学生に何度「だったら学校やめて働け。親に学費を出してもらっているくせに偉そうなことを言うな」と言ったかわからない、心の中で。そう、こいつらはなにもわかっちゃいないと、ずっと心の中でバカにしていた。今に見てろ、ではなく、一生こっち見るな、ぐらいに思っていたのだ。
自分がなにかと我慢する子どもだったことを、最近まであまり人に言ったことはなかった。リアルタイムでは言葉を持たなかったし、時代が進んだら進んだで、我慢することや、やりたいことをやらないなんて言語道断!というのがあたりまえな風潮になり、それについてあえて語るような社会でもなくなってきたように感じて、ふつうにいろいろ我慢してきた自分がどこか恥ずかしかったのかもしれない。
マジメに語ると苦労自慢だととられそうだし、そうじゃないのだと注釈を入れるのもなんだか違う気がした。今、ヤングケアラーのことが語られるようになったが、当事者の思いを斟酌し自然に慮る社会になることを切に願っている。とにかく当事者は口が堅いのだ。本当の気持ちは心のわりと深部に格納して、なんなら自分でも混沌としていることがほとんどだと理解してほしい。
今思い返すと、自己規制、抑制の過ぎた若いときの自分がとてもせつない。
東日本大震災と原発事故が起こって、被災者ではないことに罪悪感さえ覚えそうだった頃、いくつかの募金をしたが、唯一、しばらく続けたのは福島県浜通りの自治体が窓口になっていた震災孤児へのそれだった。たいした期間と金額ではなかったので偉そうなことは言えないが、自分の微々たる募金が、進学したいのに、好きな勉強があるのに、あきらめようとしている子どもたちの役に立ってくれればいいと思った。
そして今、苦労して子どもを育てた親への、本当の孝行について考えている。それは、物わかりのいい、ちゃんとした子どもだったり、大人になることじゃない。なにより、親より先に死なないことだ。嘆き悲しむパートナーや孫を親に見せないことだ。
その点に限っていえば、わたしは親孝行だった。
その点に限っていえば‥。
by月亭つまみ
ちまたま
つまみ様
ちょうど今とても感じていることが書かれていて
終盤になり読むのがゆっくりになりました。
ここ数年で何回も逆縁のお葬式があり
勿論本人たちも亡くなるまじくして という事態だけれども
子供を送るのは本当に大変なことの一つだと、
特に故人のお母さんをみては
産んだことを体で覚えているだろうなあなどと
ぼんやり思っていました。
つい先日も同じ年の従兄弟が亡くなり
従兄弟は一人息子で子供がいません。
あまり親戚も多くない中
同じ年の従姉妹として
今後どのようにするのが伯母や従兄弟の奥さん
にちょうど良い助けになるのか考えています。
つまみ Post author
ちまたまさん、こんにちは。
コメント、ありがとうございます。
「読むのがゆっくりになりました」って、書いた者にとっては五臓六腑にしみわたる表現で、うれしゅうございます。
>子供を送るのは本当に大変なことの一つだと、
>特に故人のお母さんをみては
まさにそれを証明するような‥とても残念なことなのですが、記事を更新した直後に、今回の記事の故人のお母さんが倒れました。
とても厳しい状況だそうです。
絶句し呆然とし、現在もそのままの気持ちです。
今回の記事は、夫の従弟の突然の死が、逆縁であることも含め、この世には神も仏もないのかレベルでとても腹立たしくて、その勢いに任せて一気に書いてしまったのでした。
でもその後の義理叔母のことは、ただただせつないです。
もうひとりの義理叔母から、疲れているだろうに、息子の告別式の翌日にうちに来てくれて、落ち着いたらふたりでねえちゃん(義母)に会いに行こう、きっとそのころは施設の面会ができるようになってるよ、と言い合った、と聞いて、ちょっと震えてしまいました。
金星
突然のコメント失礼いたします。
カリーナさんのツィッターコメントに続き、私も過去最高回だと思いながら、読ませて頂いておりました。
ザッツ談も楽しく拝聴しておりますが、因みに私はつまみさんの文よりも生のおしゃべりの方がより親しみやすく好きです。というか、別人格の様に受け取っております。
お勧めの本もよく注文しており、今は見えない方と美術館に行く本を大変楽しく読んでいるところです。これは私には無理!と思うのにも出くわします。最近では、sf的なやつ。とにかく、今後も楽しみにしております!
ぱろる
つまみさん
今回のやっかみはつっこみどころが満載で、読んでからずっと考えていました。
片親であることで、未来の選択肢を無意識に閉じていく若き日の諦念。
持てる者の率直な物言いに「痛みを知らぬ者の傲慢」を感じつつやり過ごす、持たざる者の悔しさ。
悲しみをあたかもないもののように振るまい、誰からでも慕われる気遣いの末に早くに倒れてしまう無念。
自分が親より長く生きているのも偶然にすぎない。
「親孝行」という言葉から、従兄弟さんの急逝を悼む無念さがひしひしと伝わってきました。
そして、唐突にこんなことを思いました。
子どもに語る素話のテキスト(おはなしのろうそく等)に因果応報のハッピーエンドが多いのは、この世は理不尽に満ち満ちているからなのだ…と。
母を亡くし父の再婚で虐げられる末娘や、いつもマヌケ呼ばわりされる末息子。
窮地を機転と知恵でしたたかに生き抜いた者たちの物語が、こんなにも繰り返し語られることを言い換えるなら、貧しさや苦しさの中にあってもユーモアを忘れず、心を閉じず、光を見つづけよ…ということになるのでしょうか。
つまみさん
毒吐きながら、楽しみ見つけて生きましょう。
与えられたいのちある限り。
従兄弟さんのお母様のことを知り、持ち直していただきたい気持ちと、苦しみを手放していただきたい気持ちとのせめぎ合いです。
もはや起こることを受け止めるしかないのでしょうが、せめてここでやりきれなさをともにさせていただきます。
書いてくださってありがとうございました。
つまみ Post author
金星さま
コメントありがとうございます。
うれしいです。
そうですか、別人格!
文章は、文字起こしというフィルターがかかっていて、That’s Dance!は思った瞬間に出る、という違いのせいでしょうか。
文章は理屈っぽくて好戦的なところがあるかもしれません。
実際はヘタレなくせに(^^;
わー!本を読んでくださっているのですね。
ありがとうございます。
『なめらかな世界と、その敵』は好物・苦手が分かれる本かもしれませんね。
『目の見えない白鳥さんとアートを身にいく』、楽しんでいただけてよかったです。
これからもよろしくお願いいたします。
つまみ Post author
ぱろるさん、こんにちは。
熟考していただき、身に余ります。
言語化すると、なんだかその感情の路線でずっと来たかのようですが、諦念も無念さも悔しさも、濃淡は当然あって、むしろ淡ですらないときも多く、何かの拍子にふっと、まるで匂い立つように気持ちが蘇って、自分で自分に驚いたりする、というのが正直なところです。
それでも、まれに「自分はどうして今ここにいるんだろう」と思うときがあって、それは子どものときからの環境と無縁ではないと思います。
自分の中にわずかにある崇高な理念(理念だけですが)も、あらゆる価値観も、お金の使い方に対する感覚、もそうですし、人に対しての思いも、です。
おはなしのろうそくの因果応報に快哉を叫ぶ自分もいれば、ベタだなとシニカルに思う自分もいます。
ままならないことに対するスタンスには、受容と抵抗以外もあるんじゃないか、とずっと思っていますが、それがなにかはまだよくわかりません。
夫の従弟である義理叔母は昨日、亡くなりました。
That’s Dance!の録音中にその連絡が来ました。
今回は、怒りではなく、ただただ悲しいです。
‥今回って、一週間も経っていないのに。