◆◇やっかみかもしれませんが…◆◇ 第78回 もうひとりの兄のその後 後編
「あのさ、父親のことをわたしはよく知らないんだけど、今頃になってちょっと興味があるんだよね。もう本人に聞けないから覚えていることを教えてほしいんだけど」とわたしが言うと、唐突だったにもかかわらず、次兄は「ああそうなの」と問われるままに語り出した。
福島県と新潟県の県境に程近い福島県耶麻郡西会津町奥川という、字面からも山奥に決まっている場所に昭和のはじめに生まれた父は、姉ふたり弟ふたりの5人姉弟の真ん中だった…とここまでは、わたしも知っている父親の基本情報である。父は勉強が得意だったらしいが、家が裕福ではなかったので、旧制喜多方中学(私の出身高校の前身)を出ると東京に出てきて、昼間は会社員、夜は専門学校に通ったらしい。どんな会社かは次兄も知らなかった。いや、それより‥
「えっ!?上京して大学に行ったんじゃないの?それはウソなの!?」
「ウソじゃないよ。その会社にいるときに東京高等検察庁の事務官見習いになったんだ」
はっ!?トーキョーコートーケンサツチョー!?なにそれ!?今までの人生では縁がなかったにも程がある固有名詞だ。みんな実態を知らないと思って‥戦後の混乱に乗じて父が作った目くらましの与太話じゃないのか。きっとそうだ。
「そんなところに行ったら大学に行けないじゃない」
「だから、東京高等検察庁に籍を置いて、そこから大学に通ったんだよ」
「えっ!?夜間部ってこと?」
「ちがう。昼間。その頃は、将来有望な人材をスカウトして、給料も学費も出して、寮にも入れて、そこから大学の法学部に通わせたらしいんだ。卒業後、何年か事務官を勤めて試験を受ければ検察事務官だか検察官になれたらしいよ」
「う~ん。知識がないからそれがどのレベルのことなのか全然わからない。そもそも、東京高等検察庁がわからない。なにするところ?」
「関東圏全部の刑事事件を扱うらしい」
「具体的にはなにをするの?」
「知らない」
とにかく、父親は大学に入り、期待どおりの成績で卒業して、晴れて東京高等検察庁の事務官(見習い?)になったという。でもこの時点でまだわたしは高を括っていた。父親発信の話であるならかなり盛っているにちがいない。そして都合の悪いところは端折っているだろう。あの父ならやる。しかも次兄は妹から見ても相当チョロい。
「‥って話を、山形で父親が事故にあったときに‥名前は忘れたけど、東京高等検察庁時代に父親の同期だったっていう人から聞いたんだ」
「えっ!?えっ!?ちょっと待って!なにそれ?」
「だから、父親が昔、山形で交通事故を起こしただろ」
「うん。わたしの高校の修学旅行の前日だから1977年の秋。学校から帰ってきたら、母親が山形に行ったって祖母ちゃんが言った。すっごい機嫌悪そうだった」
「そうなの?あの祖母ちゃんだからなあ。あんとき、俺は東京にいたんだけど、福島市のカズヒロさん(父親の下の弟)から電話が来てふたりで山形に駆けつけたんだよ」
「わたしは迷いなく修学旅行に行ったけどね。それが母親の伝言だったし」
なにを言い訳してるんだ、わたしは。でも実際、父親の身を案じて修学旅行中は気もそぞろ‥なんてことはまったくなかった。いくらなんでも冷たすぎないか、自分。
「いいんじゃないの。で、そのとき、東京高等検察庁時代の父親の隣の席だった人が、山形のそういう‥よくわからないけど検察関係のトップだったんだよ。父親は重傷で意識が朦朧としてたんだけど、その人が病院にお見舞いに来て、カズヒロさんと俺に、父親の昔の話をしてくれたんだ」
「それが、さっきの経緯?本人から聞いたんじゃないんだ」
「うん。カズヒロさんがいろいろ質問してたなあ」
父親が山形で事故に遭ったと聞いたとき、なんで山形?と思った。でもその疑問は50年近くそのまま放置していた。「しかしなんで山形になんて行ったんだろう」とわたしが初めてその疑問を口にすると、次兄はさらりと答えた。
「金策じゃないの。その人にお金を借りに行ったんだよ。その人は言わなかったけど」
ああ、そういうことだったのか。その山形の人‥仮に山形さん、が父親にどういう感情を抱いていたかはわからないが、昭和20年代、将来を嘱望された若者ふたりは同僚で(もしかしたら同寮でもあり)ともに青春時代を送ったのだ。それから四半世紀後の父親の登場理由と交通事故は、山形を「検察的見地」から束ねる(よくわからないで書いている)山形さんにとっては(仮名が紛らわしかったな)迷惑な出来事だったろう。でも山形さんは弟と息子にとても親切だったらしい。
話は前後するが、なぜ父親は東京高等検察庁で勤務し続けなかったのか問題だ。これもすぐに回答が得られた。
「父親が東京にいるときに奥川の祖父ちゃんが身体を壊したんだよ。カズヒロさんは父親より一回り年下だからまだ中学生で、そのままだと高校に行けずに就職するしかなかった。だから父親は福島に戻って銀行員になったんだって」
なんだよ。孝行息子で弟思いのいい兄ちゃんじゃないか。腹立つ。確かに、結婚当時の両親の写真には、学生服姿のカズヒロさんも神妙な顔で一緒に写っていたりしたし、母から「結婚したのはいいけど、ダンナは毎晩帰りが遅くて、カズヒロさんは十代の食べ盛りで、自分は下宿の賄いさんかと思った」と聞いたことがあった。すっかり忘れていたが思い出すものだな。
そして、高校卒業後ひとつの会社で定年まで勤め上げた、兄とは違うタイプのカズヒロさんが、常にわれわれ一家に親身で、冠婚葬祭などでお礼を言うたびに「アニキと義姉さんにはお世話になったから」と口にする意味がわかった。ずっとそれは、高校の学費と住まいの面倒を見てもらっていた恩義からだと思っていたが、もうひとつ、カズヒロさんにとってはもっと大きい(かもしれない)理由があったのだ。
カズヒロさんは、兄の輝かしい(かもしれない)将来を、自分が閉ざしたとずっと思っていた(のかもしれない)。 なんだか三浦綾子先生の小説の失敗作みたいな話だ。
小3の夏休み、母親が入院したのだが、わたしは当然のようにカズヒロさんの家に預けられた。長兄も十年近く、カズヒロさんが役員をしていた印刷会社の総務課で働いた。次兄にいたっては、高校3年生の丸1年間はカズヒロさんの家から通学したのだ。
「ちがうよ」
「なにが?」
「カズヒロさんの家からはほとんど通学なんてしてない」
「えー!?だってわたしたちが6年住んでいたあの趣味の悪い『豪邸』は売っちゃったんでしょ。居場所ないじゃない。どっかに下宿してたの?」
「父親がやってた旅館にいた」
「リョカン!?なにそれ?いかがわしい系?」
「いや、ふつうの旅館だよ。そのひと部屋に住んで高校に行ってた」
なんとまあ。 初めて聞く話が次々に出てきて鼻血が出そうだ。旅館のことなんて全然知らなかった。あらためて確認すると、父親が経営したのは喫茶店2件、雀荘1件、旅館1件だそうだが、いかにも早々に頓挫しそうな節操のない危うげなラインナップだ。どこに勝算があったのかと機会があったら問い詰めたいところだ。機会はないが。
銀行を辞めたとき、周囲の大人たちが父を評して「人に使われる性格じゃない」と言っていた。何十年も経って、東日本大震災と原発事故が起こったとき、不意に父親はわたしに、自分は優秀な銀行員だったので原発の建設計画が具体的になってきたとき、浜通りの複数の支店に送り込まれ、金が人を変える様子をいやというほど見た、と言った。まるでそれが銀行に自分が長くいなかった理由と想像させるような口調だったが、だからなんだ、と思った。じゃあ自分はどうだったっていうんだと言いたかった。
父親はずっと気分で動くこどもだったじゃないか。たとえ昔は親孝行の弟思いだったとしても、人の親になる適性は別だ。派手好きで見栄っぱりで感情の起伏が激しくて特別扱いされるのが大好きで、小学生のわたしにさえ隠せていなかった女性問題(終生、この方面のネタには事欠かなかった)、家を建てる際の場所の設定(すべての小学校の学区外だった)、なにもかも、自分が世帯主で3人のこどもの親だという自覚が欠落していたとしか思えない。長兄は、そんな父親の借金の肩代わりもしたのだ。今回、次兄にその額を聞いて、あらためて憮然とした。なんてダメな父親なんだろう。
ふんっ!死んで10年経って娘にあらためて「ダメおやじ」の烙印を押されてる。ざまあみろだ。
わたしは次兄と、今までの人生で最大量の会話をして、ある意味満足して帰宅した。そもそもの用事を忘れかけてしまったくらいだった。ひどい。
翌々日、次兄は耳鼻科での顔面神経の検査の結果を連絡してきたが、左の顔面筋力を100として、右目と口の右側の数字は10数%だったそうだ。10%未満は回復が厳しいとのことで、かなり微妙な数字だ。 視界が狭いのだから自転車に乗るときはくれぐれも気をつけて、あと、飲みづらいからといって水分を控えないように、と言って電話を切ってから、そういえばエコバッグを洗ったか確認するのを忘れたなと思った。
by月亭つまみ