「自分探しの旅」があるなら、それは「好き嫌い」の理由を根気づよく探ること。
中学生のころは、よく先生に反抗しました。そのときの先生の対応によって何となく信頼するようになったり、ますます嫌いになったりしました。自分が大人になってから、子どもや中高生と接するときは、当時の先生たちの姿を思い浮かべて態度を決めたこともあります。
子どもはいろいろな方法で先生の人間性を試そうとしますよね。常に試される先生という仕事は、だから、ものすごく大変だと思います。先生方ひとりひとりの一生懸命さや誠実さ、愛の深さ、自己保身や無関心、それらすべてから「人間」というものを学びました。反抗してすみません、ありがとうございます、と心から言いたいです。
45歳のとき、中学校の同窓会がありました。当時、あまり好きでなかった先生(女性)も参加されました。同級生の女子はみんなで先生を囲み、「お変わりないですね」「今もおキレイです」「お元気ですか」と女子中学生気分と大人の分別が混じりあった親しみの言葉で話しかけました。先生はニコニコしていたけれど、かつての教え子たちへの「言葉」はほとんどありません。「どうしているの?」とか、「大人になったね」とか言ってほしかったな。お世辞でもいいのに。
いまはもう、この先生を理解しようと思えばできるけれど、当時、好きになれなかった理由もわかりました。先生に働きかけても、期待する反応の返らない「寂しさ」を感じていたんだなと。20年後に、中学時代と同じ感覚を覚えて驚きました。
だれにでも、幼いころから「好き」と「嫌い」はありますが、成長するにつれ「好き嫌いで判断しちゃいけない!」と言われもし、自分でもそう考えるようになり、「好き嫌い」は「なんかそういうもの」として放置されがちです。
でも、もしかしたら人生って「好き嫌いの理由を、時間をかけて探りつづけ、少しずつでも好きなもので満たす」ことなのかもしれません。「好き」にも「嫌い」にもDNAの構造から生い立ちから、もう、なんやかやと絡み合っているみたいで複雑そうです。だから、ついつい「好きだから好き!」「嫌いだから嫌い!」と言ってしまいがちですが、からんだ毛糸をほぐすように根気強く見つめていくと何がしか理由がみつかる。「ああ、そういうことだったのか」と。だから、好きなのか、嫌いなのかと。
そうやって「好き」を探り、「好き」の範囲を広げて「嫌い」を減らしたり、逆に「嫌い」を増やしたり、細かなことにこだわらない「どっちでもいい」領域を増やしたりしながら生きることが、あえていうなら「自分探しの旅」なのかもしれません。
「(これこれの物やことが)好きなんです」という言葉に、なんともいえない説得力のある人がいますが、その人は、そういう根気強い旅をしてきたのかなあと感じます。
包容力のある、でも、どこか頑固さを残した「好きなんです」。いい響きだと思うようになりました。
しづか
カリーナさん、こんにちは。
今抱えていたことに「どんぴしゃ」で、「あぁ…」となにか飛んで行ったようなすっきり感があります。
言葉のめぐりあわせに感謝しております。