「老い」を常に意識しつづけて今後、数十年。ほんとにそれでいいのか?
「年齢に抗うことなく、自然に年を重ねたい」とか「いくつになっても小ぎれいにして、凛とした人でありたい」とか「○○さんのような老い方が理想」「ずっと女としてのセクシーさを忘れないでいたい」など自分のめざす老いの方向性を熱心に語るのは、何歳ぐらいが一番多いのでしょうか。
80代や90代の人でも「今後も、こうありたい」「これからは、こうしていきたい」という意味で「自然に年を重ねたい」「小ぎれいにしておきたい」と語ることはもちろんあるでしょうが、それは、もう少し現実的です。
わたしがブログを始めたのは47歳のときですが、冒頭に書いたようなことを、ああでもない、こうでもないと繰り返し書いているので、40代は、わたしのようなタイプの人間にとって「老いを語ることに極めて熱心になる時期」といえるようです。
40歳を過ぎたころから忍び寄る老いを認めざるを得なくなり、「似合う服がなくなってきた」「これまでのメイクじゃだめだ」「もう『女』としては見てもらえない!」「この服装は若作りなんじゃないか」など、さまざまな悩みが襲いかかり、心が動揺し、「老い」が一大テーマとして浮かび上がってきたのです。
ところが、なんせ、まだ30代の記憶も残るお年ごろです。老いの初心者。経験はゼロに近く、理想だけは高い。身近な例を見ては「ああはなりたくない」「こうもなりたくない」と眉をひそめ、「老いゆえの美しさがわかっていない」とあきれ、稀有な存在であるとわかっているはずの女優やモデル、芸術家を見て「ああでこそ!」「あれこそ老いのあるべき姿」「ああなりたい!」と理想を語っていました。
あれから、8年。今になってわかります。わたしにとって40代は、老いを恐れると同時に老いに夢を見ていた時期だったのだと。
少年老い易く学成り難し。
中年も老い易く夢叶い難し。
人生が80年~90年だとしたら、当然のことながら、40年~50年は「老い」の過程です。最初に描いた「あるべき老い」「素敵な老い」でやっていくには、あまりに長く、その道はあまりに遠い。40年から50年という長い時間、「老い」を受け入れるにしろ、抗うにしろ、理想を抱くにしろ、「老い」という観念を土台にして、それを心のどこかで常に意識しながら生きる。そんなことでいいのか。それって、そんなに必要なことか。ある種、自分の人生時間にかける呪いじゃないか??
いよいよ、というときまで忘れていようかな。
気づいたら、こんな年だったっていうの、ダメかな。
自ら好んで、浦島太郎になる。大事なのは、竜宮城を見つけることだ。
・・・とここまで書いて「浦島太郎になる」とかつて書いた記憶がある気がしたら、やはり書いていました。でも文脈は違いました。(文末のリンクから、全文が読めます)いまのほうが、おもしろいんじゃないかな??竜宮城を見つけよう。老いのカタチを模索するより、自分だけの時を忘れる竜宮城を探したほうがいい。
閉経もひとつの大きな契機ですね。プリ子さんの「ただいま、閉活中。」、いよいよ総括に入りました。プリ子さんの率直でリアルで(ホルモンの数値公開もありましたね)、微妙な話題なのに決して下品にならない文章、オバフォーらしさを象徴する連載だったと思います。もう連載も残りわずか。最初の記事から、ぜひ、順を追ってお読みください。
今週は、れこさんの「着まわせ!れこコレ」も更新されますよー。お楽しみに。