スマホの中は衝撃で揺れ、目の前は静謐。心の置き場がわからない一日。
こんにちは、カリーナです。
金曜日は仕事で、某大学が高校生向けに開くイベントに参加しました。現・高校三年生は、真っ白なシャツが清潔で小ぎれいです。ヤンキーはいません。わたしたちが高校生のころは、もう少しヤンキー風な男女がいたものです。わたしも、もう少し崩した服装をしていた一人です。そういうちょっと服装の崩れた子もいません。一人もいません。
だからといって、それなりに髪型はおしゃれだし、真面目くさっているわけでもありません。そういえば、ザ・ヤンキーという服装を街で見かけることもほぼなくなりましたね。いつの間にか時代は変わっていたんだな。
イベントの最後に「何か質問はありませんか」という司会者のことばに誰も手を挙げないのは、わたしたちの時代と同じ。これ、日本人特有の積極性のなさとか同調圧力の強さといわれますが、「目の前で語られていることにそもそも関心がない」というのが何より大きいと感じました。小中高の授業から続く、「自分自身の関心との乖離」と「受け身であることへの慣れ」。これ、このままじゃいけないと思うんだけど、どうも「関心(積極性)の自然な示し方」がわかんないんですよねー。なぜか、自意識とのバトルにからめとられてしまう。彼らもきっとそうなんだろうな。いいんだよ、気軽に声に出して、と言いたい。
その後、一人の大学生に話を聞きました。男子大学生は、左から右へと緩やかに流れる前髪のカーブに細心の注意を払っている模様。いま、この記事を書くためにちょっとネットで調べたら、【メンズ前髪の流し方講座】みたいな指南サイトがたくさんありました。やはり、前髪は大事なんだな。髪のスタイリングへの関心は、若さの証ですね。
次の取材まで時間があったので大学内コンビニでお菓子を買ってラウンジに座りました。スマホを開くと安倍元首相銃撃という文字。天井の高いラウンジには、ノートパソコンを開く学生たちがそれぞれに距離をとって静かに座っています。近くに学食もありますが、昼食時間をとっくに過ぎているので話し声は聞こえません。
よそよそしいシンとした空間でスマホのなかだけで事件は起き、銃声や叫びや悲鳴が響いている。目を上げると誰も、何もなかったかのように、ゆったりと座っています。彼らは、この凶行を知っているのか、知らないのか。それもわかりません。娘に「安倍さんが」とLINEを送りました。いつまで経っても既読はつきません。
再び、待ち合わせ場所に移動するとカメラの女性が男性ディレクターに「安倍さんが…」と言うと、「え?」。彼は、何も知らなかったようでスマホを見はじめました。
そして、顔をあげて「安倍さん、好きやったのにな」とつぶやきました。
帰りの電車も、みんな黙ってスマホを見ているから静かです。新聞のように活字も躍りません。紙を大きくめくる音もしない。ニュースを知った瞬間の驚愕を、そのままの大きさでだれかと分かちあわないまま7月8日金曜日は過ぎました。
内田百閒が、226事件の翌日、雪の降り積もった静かな朝を描いた文章を思い出しました。将来を変える出来事が起きてしまったと確信する胸中のざわつきと、何ひとつ変わらない現実のなかで呼吸する自分。その遠い距離に、社会の変化に否応なく巻き込まれてしまう自分という人間の非力さが凝縮されているように感じます。
日曜の今日は、選挙に行きました。いつも犬の散歩で会うご夫婦が「娘さん、帰ってこられたんですね。おうちが明るくなりますね!」と喜んでくれました。自分が思う以上に、心配されていたことを知りました。
選挙は、自民党の圧勝でした。私が投票した人は落選しました。
今週もオバフォーはコツコツ更新します。時間のあるときに遊びにきてください。
アメちゃん
カリーナさん。
この記事、とても象徴的なことが書かれてると思いました。
私たちは生まれてこのかたずっと、
情報の中で生きてきて(情報と共に居ることを意識しないほど当たり前に)
テレビやスマートフォンの画面の中や
新聞の活字、マスコミや国が発表する数字を自分の現実と思ってるけど
でも、それらから目を上げて自分自身の周りを見渡すと
何も起こってなくて、静寂が広がるのみ・・。
不思議ですよね。
たとえば、私が「宇宙ってこんな感じ」って認識してるのも
NASAが公表する映像や画像を見たに過ぎないんだって気づいたとき
なんていうか、、ハッとしました。
ちなみに、私が投票した人も落ちましたよTT。