エピソード3 ★ 歴史あるプロ合唱団での日々。
聞いた話を形に残すことを仕事にしている「有限会社シリトリア」(→★)。
普通の人の、普通だけど、みんなに知ってほしいエピソードをご紹介していきます。
昨年制作のお手伝いをさせていただいた
『みのり』というかわいい本が8月29日の朝日新聞に登場。
誤嚥事故で10歳のお嬢さんを亡くされたご家族が、
事故から死までの経緯とそれぞれのお気持ちを綴ったものです。
「みのりのことを忘れないでほしい」という願いの通り
この本が少しずつ世の中に広がっていくことに、「みのり」の力を感じています。
宣伝みたいでごめんなさい!
【エピソード 3】
50年以上暮らす街で、今もコーラスの指導を続ける咲子さん。
音楽講師を経て、プロの合唱団に入団。
以来、89年の人生は、ずっとずっと音楽に彩られた日々でした。
昭和20年、終戦の年に東京音楽学校(現東京芸術大学)の師範科に入学。
卒業後、都内の高校で音楽講師をしていたある日、
咲子さんは、たまたま聴いていたNHKラジオで、こんな告知を耳にします。
“専属合唱団の団員募集”。
「昭和25年頃だったかしら。欠員募集だったから、採用されるのは2人。
なんとそこに40人も応募してきてたのよ。
試験場には大学時代に見知った上級生の顔もいっぱい。
あ、ダメだ絶対落ちるわ、私。帰ろうっ!と思った」
敵前逃亡を決め込んだ咲子さん。
そのスカートを、グッと押さえて離さない人がいました。
「受験者はみんな、伴奏者を連れてこなくちゃいけなかったのね。
その子がすごく怒るわけ。
『そんな卑怯なのはダメ! 歌ってから帰るの!』って」
まさに彼女のおかげ。
咲子さんは見事、2人の合格者の1人に選ばれます。
後に、団の先輩が教えてくれました。
「お前の声は、声楽家独特のクセがないのが良かったんだよ」
というわけで、咲子さんの合唱団生活が始まります。
東京放送合唱団は、NHKが個人契約する声楽家で結成された
ラジオ放送専用の専属合唱団で、
日本でもっとも古いプロの合唱団と言われています。
放送劇のバックコーラスをしたり、学校放送向けにソロで歌ったり、
カラヤンが指揮するN響のバックで歌ったり。
ギャラは15分単位。めまぐるしく、忙しいけれど、刺激的な毎日でした。
そして昭和28年、テレビ放送が始まります。
この年、シャープが発売した国産第1号のテレビは175,000円。
ちなみに、当時の高卒初任給は5,400円くらいでした。
テレビ放送開始後、咲子さんも画面に登場して歌う機会が増えました。
白い服を着てはいけません——これが歌う人の鉄則。
理由はハレーションを起こすから。
当時のスタジオ機器は、今では考えられないほど扱いが大変だったのです。
「ライトもすごく熱いの。
その頃、男の人はみんなポマードをつけてるから、それが溶けちゃうくらい。
あるとき突然、隣で歌ってる男の人の頭から湯気がモワモワ~って。
それはそれはびっくり!」
芸能人と一緒になる機会も多く、
まさに当時、NHK専属劇団の女優だった黒柳徹子さんの
ドラマ『トットてれび』の世界です。
森繁久彌さん、渥美清さん、後のそうそうたる俳優さんとも仕事をしました。
そうは言っても草創期のテレビ界は、まだ垣根が低く、
“声楽を勉強したお嬢さん”にとっても意外に距離の近い世界だったのかもしれません。
「森繁久彌さんなんてほんとおしゃべりで、
お芝居の間でも、ちょっと座っては面白いことばっかり言ってる。
だからいつも周りに笑いが絶えなくて」
旧制中学の先生だった咲子さんのお父さんは、
音楽家になりたいという夢を、6人の娘に託したのだとか。
「クラシックが一番。ほかの音楽は下世話」と
小さい頃から叩き込まれた咲子さんには、まさに目からウロコの職場でした。
結成60年記念アルバム(2005)
咲子さんは今もシニアコーラスの皆さんに
プロならではの発声テクニックを伝授しています。
コロコロときれいな歌声、ケラケラと明るい笑い声にあふれる練習風景。
ラジオとテレビの世界で身につけた咲子さんのエンタテインメント魂は、
その美声とともに今も健在です。
- 写真/佐藤穂高(広島在住のプロカメラマンです)
- 有限会社シリトリアのHPはこちらから★月亭つまみとまゆぽのブログ→「チチカカ湖でひと泳ぎ
★ついでにまゆぽの参加している読書会のブログ→「おもしろ本棚」よりみち編