教育現場における絶望と希望のカットバック
ここ数年の間、教育現場に関わっている人たちとやり取りすることが多い。で、多くの人たちから「もう、どうしようもない」という絶望的な声を聞く。こちらとしても、身に覚えのある内容が多いので、うなずきながら話をする。会話が進むうちに、だいたい絶望のなかに、「あれが、こうなったら、なんとかなるかもしれないけれど」という小さな希望のようなものが立ち現れる。
ただ、その希望を現実のものにするためには、どうしたって人と人との協力ということが不可欠になる。すると、とたんにみんなの表情が曇る。協力しあおうと約束したけれど、それが果たせなかったという記憶が呼び起こされて、希望が再び絶えてしまいそうな予感に包まれてしまう。
いま、教育現場はとても不自由だ。カリキュラムもシュラバスもきちんと立てられているのにも関わらず、それが実現できることはまれだと思う。ほとんどの場合、それが希望的な目標として立てられていて目標と現実の間にはとても大きな溝がある。
例えば、ある大学ではスマホの使用がOKになっている。授業中に調べなければならないことがあった場合、すでにスマホの辞書を使う学生が大半を占めているから、という理由らしい。でも、そうなると、ゲームをする学生が必ず出てくる。授業の質問をYahoo!知恵袋で調べる学生が必ずいる。
困った教授が、「私の授業ではスマホを禁止します」と言ったところで、言うことを聞く学生は少ない。その教授が偏屈なのだと思うだけで、授業は崩壊してしまう。パンを食べながら授業を受ける学生もいれば、音楽を聞きながら作業をする学生もいる。実際に社会に出れば、そんなこともあるだろう、という配慮からそれを許しているという教授がいて、前述の通り一人でも許してくれる教授が入れば、許さない教授のほうが学生にとっては理解しがたい教授となってしまう。
すでに、その辺りの常識が壊滅状態であることは、通勤電車のなかでロリコンアニメに見入って、ゲームのボタンを連打しているのが子どもではなく老眼で目を細めている年代なのだということを見ても明白だ。
そこさえ、最初の段階で厳しく接していれば、もっとラクに進められることがたくさんあるのに、と思う。人はラクなほうへと流れていく。いったん流れたものを引き留めたり、こちら側に引き戻したりすることはとても難しい。
難しい上に、とても労力のかかる虚しい作業だ。その虚しい作業が、多くの授業のなかで時間をさかれ、クリエイティブで楽しい本来の授業時間を駆逐していると言っても良いだろう。その虚しさが、現場に絶望を呼び寄せてしまうのだと思う。
素直に「はい」と返事をして謙虚に授業を受ける普通の学生が、素晴らしい学生のように見えてしまうほどに、教育の現場は疲弊している。国公立も私立も大学も専門学校も関係ない。ほとんどの現場が同時多発的に疲弊し始めている。
それでも、教育を充実させることでしか、未来を拓くことは不可能だと思う。教えるほうだけではなく、教えられるほうにとっても、これからの数年が正念場なのだと思う。
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植松眞人(うえまつまさと) 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。 現在、神楽坂にあるオフィス★イサナのクリエイティブディレクター、東京・大阪のビジュアルアーツ専門学校で非常勤講師。ヨメと娘と息子と猫のマロンと東京の千駄木で暮らしてます。
★これまでの植松さんの記事は、こちらからどうぞ。
nao
uematsuさん、ごめんなさいmm
地方の国立大でしたが、1講目は朝起きられないという理由ですべてパス。
殆ど授業を寝て過ごし、代返を使えるだけ使って
最低限の単位だけ取って卒業しました。
崩壊は今に始まったことではないけど
あの頃教える側も大概いい加減だったのが
今はすごく大変そうですね。
教育ってどこへ向かって行くんでしょうね。
それでも若い人は社会の希望だと思うのですが。
uematsu Post author
naoさん
なんだか、僕らのころとは、根本的に
なにかが違っている気がするのはなぜなんでしょう。
特に今は少子化が進んで、
学生一人あたり、どれだけの料金で入学させられたのかが
シビアにはかられてしまいますし、
同時に、いったん入学させた学生はきちんと最後まで卒業させる、
ということが最優先課題のようになっています。
もちろん、それも大切なことなのですが、
時には、学問に向いていない学生に対して、
別の道を示唆してやることも教える側の優しさだと思うのですが、
基本、それは許されない状況ではあります。
少子化で、学校は学生に優しくなり、
学生は優しくなった学校に甘える。
なんとなく、その関係性がすべての崩壊の始まりのような、
そんな気もします。
サヴァラン
数年前、同窓会で学生時代の先生とお会いしたときに
かつての「若手」の先生が
昨今の大学事情についてつくづく嘆いていらしたのを思い出しました。
深夜の携帯に「先生今暇ですか?」とメールがくる。
内容は学業に関する質問もあれば
単位や進級、就職に関する相談のこともある。
単位や進級に関して、少しシビアな返答をすると
自殺をほのめかすような内容が返ってきて対応に苦慮する。
精神面の問題を抱える学生も年々歴然と数を増やし
親からも直接メールがくることもある。
とにかく、学生本人もその保護者も「卒業」に対する執着が強く
学内でも、こうしたケースにどう対処するかが常に議論の対象で、
卒業是認派と卒業否認派の意見は平行線のまま結論をみない。
他方でFD制度の導入など教員評価の観点もすすみ
それがまた学生と教員の関係を複雑にしている現実もある。。。
「今は大学運営がビジネスとの一線を越え、サービス産業化してしまったため、
従来の体制を維持することはできず、状態は悪化の一途をたどるばかり。。。」
その先生の疲弊と落胆は著しいものでしたが、
翻って自分たちが真っ当な学生であったといえる自信は微塵もなく
他方で「親世代」でもあるわたしたち「元学生」は、
ただただ肩身の狭い思いでこの「元若手」教授のおはなしを聞いておりました。
「現状を少しでも改善しようと思えば
誰かがヒールにならなければならない。
でも現実にはそれもただのヒールで終わる。
結局資本主義の金のルールに身を売った大学が悪い。
ならばそもそも、『大学』とは何なのか?その実態は何なのか?
すまんねきみたちにこんなはなしをしてしまって」。
「いえ。こちらこそ。いろいろすみません。。。」
そういう会話が20年ぶりの学生と先生の間でも取り交わされておりました。。。
uematsu Post author
サヴァランさん
その先生のお嘆きはごもっともだと思います。
すでに公立の小学校が、放課後の補習授業のために学習塾の助けを借り、
そのためには別途料金が必要になるなんという状況が生まれています。
同じ地域で公立学校同士で競わせて、
どっちが良いのかを選ばせるという状況は数年前からあり、
文科省はその結果で、人気のない学校を廃校にしようと目論んでいるようです。
しかし、本来、公立の学校は嘘でも「どの学校を選んでも同じ質の教育が受けられる」と、
胸を張っていいわなければならないはず。
万一、違っているなら、そうなるように努力する必要があるはずです。
先生を評価するアンケートを鵜呑みにして、
先生を取捨選択する学校もありますが、
僕だって、学生時代にそんなアンケートがあったら、
当時、厳しかった先生の評価を低く書いたかもしれません。
でも、いま思うと、そんな先生からの一言が、
とても強く心に響いて、いまの礎になっていることもあります。
こうなったら、本当に意欲のある子どもたちと、
本当に向き合うことの出来る私塾にしか未来がないのか、
なんて思ったりもするのですが、
それでは、あまりにも限られた人だけが恩恵を被ることになってしまいます。
教育って、本当に難しい。
だけど、やっぱり、学校のことや、教員のことや、その他いろんなことはさておいて、
本気で学生と向かい合うって、どういうことだろう、
ということを考え直す時期に来ているのだと思います。
決して、学生とメールのやり取りをして仲良くなったり、
学生をおだててスムーズに授業を運営したりすることが、
本来の学校の役割ではないと、みんな知っていますからね。