何が正しくて、何が正しくないのか。
横断歩道は、歩行者を守るためにある。ということに何の異存もない。だけど、もともと車と人とが互いに譲り合っていれば、横断歩道なんてなくったって、何の問題もなかったはずだと思う。
横断歩道も信号もない道路。渡りたければ、ひょいと手をあげれば車は減速してくれる。ドライバーは「どうぞどうぞ」と合図をしてくれて、歩行者は「どうもどうも」と会釈をして道路を渡る。たったそれだけのことで良かったはずなのだ。
ところが、そうは問屋が卸さない。車はどんどん増えて、ビュービュー走ってるし。もし、一台の車が止まってくれたところで、後ろから来た車が歩行者に気付かないと追突されて、歩行者まで吹っ飛ばされてしまう。道路だって一車線や二車線ならいいけれど、車が多いからって都会じゃ四車線六車線の道路もざらじゃない。そうなると、横断歩道や信号がないと危なくて仕方がない。
だったら、とこうくるわけだ。だったら、夜の夜中、車が一台だけ通れる車道。そこに短い横断歩道があって、信号まで付いている。通りかかったら赤信号。ふと立ち止まったけれど、右を見ても左を見ても、どっちからも車が来る気配がない。耳を澄ませてもエンジンの音のかけらも聞こえない。こりゃもう安全だ。だって、万が一にだって車にはねられる危険がないんだもん。さて、これ、渡っていいよね。どうなんだろう。目の前のおまわりさんがいると、これでも警笛ならされて止められるんだろうか。止められるんだろうな。つまり、赤信号無視は交通違反だから。
ま、大人なので、おまわりさんがいたら僕も信号を守ります。だけど、いなけりゃさっさと渡っちゃう。さてさて、何が正しくて正しくないんだか。
正直、大人になればなるほどそのあたりがわからない。というか、もうどうでも良いとさえ思えてくる。正しいとか正しくないとか、そんなことどっちでもいい。もう、好き嫌いだけで判断したい。なんか、いろいろ言われるけど、あんまり嫌じゃないからいいや、とか、すごい気持ちよさげなことをおっしゃるけれど好きになれないからもう仕事しない、とか。近頃、それでいいんじゃないかと思うようになってきた。
いや、そうする、という話ではないんだけれど、そんな気分が時折、むくむくと頭をもたげてくる。
まあ、人によって違うのだろうけれど、僕自身はなんとなく心地よさを優先したいのに、ルールはきちんと守ってきたぞ、というタイプだったように思う。だけど、こっちがいくらルールを守っても、相手が「それはルール違反だ」と言い出したら、ただただややこしいだけだし、正論だと思っている相手に「それは違いますよ」と言ったところで、何も解決しない。
宮本輝が37年間を書けて書き上げた「流転の海」シリーズの完結編「野の春」の中に、わからない相手を論破してはいけない、という話が出てくる。いくらこちらが正論であっても、相手を論破すれば、相手から恨みを買うだけだ。だから、論破してはいけない。論破した瞬間に関係は破綻している、という趣旨の話だ。
この一節を読んで、近頃身の回りで起こっている様々なことがストンと腑に落ちたような気になった。いくらこちらが良かれと思って諭そうとしても、論破してしまえば、結局は相手の面目をつぶすのだ。そして、その時、いくら相手が殊勝な顔をしていても、相手の心にはしっかりと論破されたという恨みが残ってしまうのだ。まあ、結局日が経つと「言いくるめられた」としか思えないということなのだろう。
最近の頑なな若人たちは特にそんな傾向が強い気がする。だとしたら、そんな彼らと一緒に仕事をするのなら、自分に出来る範囲で、つまり、一車線かせいぜい二車線の道路を選び、信号とか横断歩道に頼らずに、自分の判断で渡れる方法を見つけ、じっくり取り組んでいくしかないのでは、と思うのだ。というか、僕自身はそうしようと決めた。それ以外に僕自身は生きていく道はない。そんな気がしている。
植松さんとデザイナーのヤブウチさんがラインスタンプを作りました。
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植松眞人(うえまつまさと) 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。 現在、神楽坂にあるオフィス★イサナのクリエイティブディレクター、東京・大阪のビジュアルアーツ専門学校で非常勤講師。ヨメと娘と息子と猫のマロンと東京の千駄木で暮らしてます。
★これまでの植松さんの記事は、こちらからどうぞ。
つまみ
私も、近頃、正論に近いことを言えば言うほど、関係が破綻するのを実感しています。
正解なんてない、あるとしても全てあとづけの世の中だから、他者と袖振り合わせながら生きていくためには、ある程度の理性を保つ必要があって、その理性の共通認識が正論かなと思っていました。
なので、それをやたら振りかざすのは息苦しいけれど、意見が食い違ったり、いくらなんでもそりゃないよという状況になったときは、理性的な判断は大事かと。
でも、世の中は「感情」を持ち上げます。子どもの頃から。
気持ちが大事、やる気、気合い、気心、気配り、その気になる…それらとは似て非なるモノもこぞって重要視し、「やりたくない」「気が乗らない」「かわいそう」「とにかくイヤ」「めんどくさい」…なども、個人の場でならともかく、おおやけだったり、仕事や、のっぴきならない局面でも平気で登場させ、理性より上位に置く人、います。
理性や理屈はわかっているけれど(実はわかってないが)、それでもそれに納得できない感情があれば、それは理性や理屈より人間として正しく、優先させるべき、みたいな。
そしてそれを論破すると(そりゃあ、カンタンにできますよね)ホント、恨まれます。
なんなら、その案件には全く関係のない過去のことまで引き合いに出し、攻撃してきます、よより感情的になって。
っざけんじゃねーよ!
こっちだって感情だけで勝手にやれるんならやりたいっつうの!
…あ、感情的になって言葉乱れました。失礼しました。
爽子
なんというか・・・
どの場面でも、勝ちすぎてはいけないのではないでしょうか。
論破、スカッとジャパンは一瞬でしかないと思います。
ああ、意識は低いかもしれませんが快適で楽しく暮らしたいです。
uematsu Post author
つまみさん
ほんと、最近その傾向が顕著ですよね。
「気持ちを大切に」「気持ちを最優先に」
みんながそんなことしてたら、世の中崩壊しますよね。
uematsu Post author
勝ちすぎというより、相手が「負けた」と思ったら、こっちの負けなんでしょうね。
ああ、恐ろしい